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Censored!! 誰がエロを決めるのか?~大原直美さんの件で伝えたいこと【閲覧注意】過激な性表現が含まれます

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Louise Bourgeois, Destruction of the Father, 1974

柔らかくも、固くも見える巨大な肉の塊のような台の上に散乱する切断された「父」の肢体。壁や床からそれらを取り囲む肉の芽は、乳房のようでもあり、ペニスの先端のようでもある。このグロテスクな悪夢は「Destruction of the Father」(「父の破壊」)と名付けられた。ルイーズ・ブルジョア(1911-2010)、63歳にして制作されたものだ。

彼女は「父が私を破壊したので、だから私も父を破壊し、食べるのだ」と主張する。

彼女の父は母とは別に愛人の女性を家に招き入れ、彼女は彼らと寝食を共にした。肉塊に見える台は「ベット」であり「テーブル」でもあると言われている。

彼女の作品が不気味で不可解なものだったとしても、食卓や、ベットの中で、大人たちと過ごした日々の生活が、家の中が、幼い少女にとってどんなものであったか伺い知ることは容易い。

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Louise Bourgeois, Janus Fleur, 1968

「Janus Fleur (1968)」(「花咲くヤヌス」)は、双面のヤヌス神をモチーフにしたものだ。女性器に見えるが、側面の突起物に注目すると二つのペニスを半ば強制的に接合したものにも見える。彼女はこの女性器と男性器の複合体を「自画像」だと伝えている。

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Louise Bourgeois, Maman, 1999

ルイーズと言えば、人々から「ママン」と呼ばれ今日親しまれる奇妙な蜘蛛のスカルプチャアのイメージをどこかで見たことがある人は少なくないはずだ。蜘蛛は「捕食者」であると同時に何者かの侵入を遮断する「保護者」でもある。それはタペストリーのリペアで生計を立て、まさに糸を紡ぐことで父の暴力から彼女を守った「母」のメタファーだと言われている。

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Betty Tompkins, Women, Words, Warhol #1 2018

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Betty Tompkins, Apologia, Mary Shepard Greene Blumenstein 2018

誰もが知る有名なアート作品に登場する「女性の表象」をピンク色のテキストが覆い尽くす。ベティ・トンプキンズは世界中の人々の様々な言語から「女性」や「女性の身体」を連想させるスラング、慣用句を集めインスタレーションを行った。「Women Words」シリーズ(2003-2013)。最も多く見られた言葉は、cunt(おまんこ)、slut(ヤリマン)、bitch、およびmotherだったという。作品には、「flesh wallet」「bitch」「damsel in distress(DID、物語に登場する女性のステレオタイプ)」などといった言葉が多用された。

近年発表された「Apologia」(謝罪・弁明)では、MeTooムーブメントでセクハラを告発された男性著名人らがマスコミに語った「弁明」が大胆にも名画に重ねられた。こうした彼女の試みは、フェミニズムのコードによって解読を受けなければ、何がしたいのか意味不明で落書きのようだ。しかし、近年、美術史のみならず社会の中で「女性」の存在がいかに軽視されて来たかを明らかにするものとして注目を浴びている。

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大画面に男性器と女性器のクリーチャーが狂乱するジュディス・バーンスタイン(1942-)の作品を初めて見た者は、そのあまりの直截さ、猥雑さ、混沌さに思わず息を呑むだろう。もっともよく知られる初期の作品は毛むぐじゃらの巨大なスクリューと化したファルス(男根)のシリーズだが、これらは主に'60後期~'70年代に制作されたものだ。彼女はファルスのイメージを駆使して保守的なジェンダーや戦争、国家イデオロギーを告発したわけだが、あまりの過激さゆえ「ポルノ」として仲間のフェミニストからも批判された。

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Judith Bernstein, HORIZONTAL, 1973

またファルスを用いる彼女の手法は男性にとって不快であり、脅威的であった。彼女の作品は、男性に支配されたNYのギャラリー・システムには到底受け入れられるものではなかった。かくして彼女は美術界から追放され、再び脚光が当たるのにおよそ25~30年余かかった。その間、彼女はNYの高校で教鞭をとり、毎日を絵画とドローイングの練習で黙々と過ごしたいう。彼女自身、フェミニストによる芸術運動に深く関わっていたはずだが、彼女の居場所はギャラリーにもフェミニズムにもなかったのである。ブランクの時期、彼女は「私は死ぬだろうし、すべてが捨てられる」と言い残している。

このような歩みはバーンスタインに留まらない。MeTooの追い風に乗り、今やフェミニズム・アートの先駆者として先陣を切るスターとなったルイーズも、トンプキンズもそうだ。

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Betty Tompkins, Fuck Painting #1, 1969, #31, 2009, #25, 2007

トンプキンズの代表作である「Fuck Paintings」は'60年代後期から制作されたものだ。男女の接合部を拡大したこの作品のモティーフは、当時、所持するのも禁止されていた夫のヴィンテージポルノだった。作品は何層ものスプレーとスタンプ、微細なテキストの集合であり、ひとつの作品に膨大な時間が費やされた。なぜそこまで男女の性器に執着しなければならなかったか。彼女したことは何が猥褻で、何が猥褻でないか、性表現のヒエラルキーの解体であり、価値基準の変換であったが、しかし、彼女の作品は「猥褻だ」という理由で度々検閲を受ける。以後、彼女は性器がグリッド状に分割された「Censored」(検閲済み)と呼ばれるシリーズを作り続けることになる。

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Betty Tompkins, Censored Grid #15, 2009

こうした彼女の活動も評価を受けたのは'00年代に入ってからだ。彼女は言う。「私の作品はほぼ40年間、展示されていなかった」。
ルイーズに至っては、制作活動を開始したのは'30年代後期だが、彼女が美術界において「評価」を受けたのは'80年代だ。実に彼女が70代になってからだ。国際的に知られるまでにはさらに時間を要した。'99年のヴェネツア・ビエンナーレに登場した彼女は88歳だった。彼女たちを紹介する時、その長い活動歴を手放しで称賛する評論は全く信用に値しない。何のことはない。美術史が、時にはフェミニズムすらも、彼女たちを長い間無視してきたのである。

芸術の分野にも急速に浸透したフェミニズムだが、'70年代には芸術史における「女性の不在」を問うまでになった。どうしてこんな話をしているかというと、実のところ20世紀まで「女性の芸術家」というのは存在していなかった。と言うと驚く人がいるかもしれないが、ある意味そうなのだ。もちろん、今日ではベルト・モリゾ(1841-1895)やメアリー・カサット(1844-1926)など19世紀の「女流作家」はよく知られた存在だ。しかし、当時、彼女たちはサロンでどんな扱いを受けていただろうか。

だから、正確には「いないことにされて来た」と言うべきだろう。今でこそ「女性アーティスト」といえば当然のように存在しているが、ルイーズたち以前にそもそも「女性」が美術界において一定の、正当な評価を受けるようになったのは21世紀になってからだ。

それまではどのような形で女性が芸術に関わって来たかというと、「モデル」であり、「肖像画のヌード」であり、よしんば「作家」だったとしても有名な男性作家の「弟子」として登場してきた。つまり「人間」や「作家」としては登場せず、常に女性は芸術史の中で「オブジェクト」=「観察される物体」か、あるいは男性の神経を逆なでしない、男性視線の「女性」や「母性」のイメージを壊さない、ふわっとした絵を描く「二流の男性作家」として関わって来たのだ。それは「女性」ではない。「男性の亜種」である。

'70~'80年代に入るとフェミニズムですら自明としてきた「性別」の枠組みそのものを問う「ラディカル・フェミニズム」が登場し、芸術においてもミシェル・フーコー(1926-1984)、ジョディス・バトラー(1956-)らのポストモダン思想、ジェンダー論、マルクス主義による美術史学、イデオロギー批判による諸概念の「脱構築」が始まる。社会コードを解読する術を得たフェミニズムは、芸術上の「女性の表象」もまた社会化、構造化されたものに過ぎないことを詳らかにしてみせた。

しかし、それでも、ルイーズ、トンプキンズ、バーンスタインらの作品は隅に追いやられたままだった。

アートの世界ではアンディ・ウォーホル(1928-1987)、ロイ・リキテンスタイン(1923-1997)など資本主義と消費社会を前提とする「ポップアート」が席巻する一方で、装美性を排し、作品が展示される<場>、「ギャラリー」や「美術館」そのものを媒体と見なすコンセプチュアルな純粋主義、ミニマリズムが芽生える。

つまり、ポップでオシャレな「アート」が量産される時代が到来しようとしていた。そんな中、極大の性器やブツ切りの内臓、ポルノ紛いの男女の性交を主題化するルイーズ、トンプキンズ、バーンスタインらは一体どう見えただろうか。それはやはりイカれている。彼女たちは「blood and guts(スプラッタ系)」「black sheep(やっかいもの)」などと揶揄された。

今でこそ、私たちはドウォーキンやマッキノンらのポルノ規制を冷静に受け止め評価することが可能だ。しかし、当時の女性たちはメディアに映し出される様々な「女性の表象」が男性によって創られたものであり、それを「ポルノ」だと批判する言語を初めて振るえるようになったのである。
美術批評家リンダ・ノックリン(1931-2017)による「なぜ偉大な女性アーティストはいなかったのか」という問題提起がなされたのが'70年代初頭である。

芸術・美術史では、女性が自らの力で「えっ?うちらまだこの歴史に本当の意味で登場していなくね?」と気付いて50年ほど経過した。

それが今日われわれのいる社会であり、われわれが問題にすべき「アート」である。


誰がエロを決めるのか。エロとは何か。

さて、ゲスト講師に会田誠さんら招き「ヌード」をテーマにした公開講座でセクハラを受けたとして京都造形大を提訴した美術モデルの大原直美さんの件である。
私はTwitter上の議論や、会田氏の言い分を強い違和感と共に眺めていた。そこには芸術・美術史における「女性の表象」について、フェミニズム及び女性アーティストが行ってきた歴史や問題提起がまるで欠落しているからだ。

会田氏はジャン=レオン・ジェローム(1824-1904)を例に出して「芸術におけるヌードとポルノの境界線の曖昧さを感じてもらうため」と説明している。また次のようにも語っている。

続き)落ち着いた文化教養講座をイメージしていたなら、すごいギャップがあったでしょう。僕は芸術が「落ち着いた文化教養講座」の枠に押し込められることへの抵抗を、デビュー以来大きなモチベーションとしてきた作り手です。(続く

会田誠 (@makotoaida)

続き)そもそも西洋から来た「ヌード」という美術のジャンルが、歴史的に「妙なもの」であるという点を軸に話したつもりでした。研究者でないので結論なくグダグダ話しただけと思いますが。全体的には「人類にとって芸術とは何か」という僕の人生を賭けたシリアスな問いの一環だったはずです。

会田誠(@makotoaida)

ジャン=レオン・ジェローム、麻生三郎(1913-2000)、アルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)、ルシアン・フロイド(1922-2011)、アラーキー荒木経惟、1940-)等々…。なるほど、確かに美術史では度々「芸術におけるヌードとポルノの境界線」、何がエロ、何がグロなのか、猥褻とは何か、その価値の転換が図られ更新されて来た。しかし、それは常に「男性」によるものではなかったか。

例えば、美術館に展示されたギュスターヴ・クールベ(1819-1877)の名画「世界の起源(The Origin of the World 1866)」の前で自ら性器を曝け出すデボラ・ドゥ・ロベルティスのパフォーマンスは、芸術史上における基本的な出来事と、それに加えて、フェミニズムが示した問題提起を知らなければ全く理解出来ない。彼女は度々、世界的な名画や彫刻を自身の身体を使ったヌードで実演して見せ、公共空間から排除されたり、文字通り「撤去」されている。

男性は彼女を嗤うかもしれないが、ここでは男性芸術家の描いた女性器はエポックメイキングでアヴァンギャルドな「芸術作品」として重厚な額縁に入れられ人々に崇めたてられ、莫大な資本が動く一方で、女性自身が身をもってそれを示すと「猥褻な行為」として警備員に取り囲まれ、瞬く間に舞台から引きずり降ろされるという、歴史上幾度となく繰り返されて来たアートにおけるパトリズムが見事に暴き立てられている。

会田氏や大学側を擁護する意見が数多く見受けられたが、会田氏への人々の評価と言えば、彼は「エログロ」を「嫌われることを予想された上で制作している」、故に芸術における諸制度、イデオロギーに対して彼は「確信的」であり、現代アートにおける「エロとは?グロとは?」の問題提起をしているのだという。一方で、大原さんは現代アートを解さないお上品なお嬢さんであり、彼女の訴えは「見当違いなクレーム」ようである。これは、まるでどこかで見て来たような光景ではないか。

訴えるのは個人の自由だが、会田誠氏の作品を一度もググらずにヌードを通してみる芸術論を聴講しに行ったのだろうか。お行儀の良い場所においても会田氏のアートが知られ注目されるようになったことで、却ってアーティスト自身の表現領域が狭められる危険が生じてしまった。

三浦瑠麗 Lully MIURA (@lullymiura)

京都造形芸術大の講義で講師の会田誠氏の内容がセクハラだったと女性が大学を提訴した。女性は会田氏の作品や人となり、モットーを知らなかったのだろうか。ましてや芸術大学なのに。客席の「さっきから黙って聞いてりゃふざけたことばかり言いやがって、マジメにやれ」という理不尽な野次を思い出す。

立川談四楼 (@Dgoutokuji)

難しい時代になりましたね。手塚治虫だと思って安心して読んでたらレイプだのバイオレンスだの、なにこれひどい❗って言われかねない。

手塚るみ子 (@musicrobita)

美術大学主催のヌードの公開講座会田誠が講師であることが事前に告知されている。そこにやってきた美大(通信)卒業生がショッキングな表現である可能性があると事前告知する配慮がなかったと大学を訴える。これがまかり通れば、美大は授業なんてできなくなります。

柴田英里 (@erishibata)

実のところ会田氏の作品は、フェミニズム・アートで度々女性から提出された過激な作品群からすれば、言い伝えられるほど決してエロでもグロでもない、むしろささやかなものだ。仮に会田氏のエログロが従来のヌードとポルノの境界線を引き直したとしても、それは「古い父」が「新しい父」と交代しただけのことであり、依然として「何が猥褻で、何がアートなのか」それを決めるのは時の「権威」であり、それが「男性」であることに違いはない。そして、一方はクルーベやトンプキンズがそうであるように、検閲や、美術界から何十年も追放されるほどの扱いを受け、一方は少女の手足を切断した絵を描いただけで「現代アートの確信犯」などという絶賛を浴びる、この「扱いの違い」は一体何だろう? 「難しい時代になった」と言うが、一体どこの時代の話なのだ。

「私が見たくないモノを、私の許可なく視界に入れるな」って人はこれからどんどん増えると思う。>「会田誠さんらの講義で苦痛受けた」女性受講生が「セクハラ」で京都造形大を提訴 yokotaro (@yokotaro)

「私が見たくないモノを、私の許可なく視界に入れるな」。しかし、芸術・美術史においてそう主張してきたのは「女性」ではなく、いつも「男性」であり、人々の「視界」から排除されて来たのは「女性のエログロ」、つまり「男性にとって都合の悪いエログロ」だった。

人々が行っている議論や発言がいかにおかしく、転倒しているか判るだろうか。
この一件では、講義中セクハラ発言があったかなかったか。そもそもそれは「セクハラ」なのか、そうでないのか。あるいは勘違いしたお嬢さんが受講してしまわないようにシラバスや告知の仕方、あるいはピュアでお上品な人たちがクレームを発した時、学校側の対応としては問題がなかったかどうかに焦点が当てられている。もちろん、訴えを認めたものの授業や同窓会への出入りを禁止した大学側の対応に問題があることは言うまでもないが、私は全くもって納得がいかない。

しかし、素人が騙されにくい、看板に偽りない、「嘘のないシラバス」とは一体何だろうか?と思うのである。ロダンではなく、手足を切断された少女やゲイの亀頭がシラバスにはっきり示されたとしても、それが男性主流の美術史観であることを示さないならば、その前提となる「エログロアートの美術史」そのものが最初から「嘘」「偽り」のものではないか。

この問題の根底には、私たちが、「モデル」でも「肖像画」でもなく、また弟子や愛人でもない、生身の「女性」の存在があったことを全く無視した、偏った芸術・美術史を学習し、何の疑いもなく共有していることにある。

美術批評家、執筆家でありアーティストでもあった大野佐紀子氏は次のように指摘している。

画家・キャラクターデザイナー森次慶子氏は次のように喝破している。

男性講師が講義中「下ネタ」を連発したり、「自分のオナニー」や「AV女優とゴキブリのセックス」のスライドを見せていいなら、同様に女性講師が「親父が気に入らないので殺してバラバラにして食べました」「ペニスを引き裂いて精神病院に吊り下げてやりました」と発言したり、「じゃあ、先生のまんこを見なさい!これが芸術です(クパァァ)!」なんてことをしてもいいかもしれない。もしそれで男性の受講者が「精神的苦痛」を感じて「セクハラ」を訴えたら、こう言えばいいだろうか。「これだから素人は困る」と。「難しい時代になりましたね?」と。

会田氏はヌードモデルのデッサンで「裸の女性が真ん中にいて、たくさんの男たちがそれを凝視している」しかし、「言外に欲情は禁じられてる。これってなんなんだ? 何ゆえなんだ? 歴史的経緯は?」と述べている。

19世紀、女性は美術学校に行くことも、ヌードのデッサンすらも禁じられていた。「女性のヌードを描く」ことは「男性の特権」だった。

「何に欲情して良く、何に欲情してはいけないか」それを決めて来たのは、自分たち男性なのに「どっちが嘘をついているんだ? どっちが病的なんだ? そういう問い」だと21世紀になっても訴えている男性の芸術家が「まだいる」。そして人々はそれが「芸術だ」「アートだ」と信じて疑わない。

この現実に私たちは驚き、立ち止まるべきだ。

ブラックシープフェミニズムと共に

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Judith Bernstein, BIRTH OF THE UNIVERSE #4 (SPACE, TIME, AND INFINITY), 2012

おそらく大原さんは裁判で負ける。言いたいことの10分の1も言えずに。芸術イデオロギーの問題は裁判で議論の対象にはならないし、その上、日本の司法は正義、不正義の審議に無関心だ。

本当に酔っぱらっていたかどうか、同窓会に出るなと言ったか言わないか、そんなことが延々と続くうちに問題の焦点はどんどん遠ざかっていく。

意識があったかどうか、腰を動かしたかどうか、濡れていたかどうか、はっきり拒否したかどうか。レイプの裁判と同じだ。

そうやって大原さんは辱めを受けて、無残に負ける。

クルーベやトンプキンズらが無視されて来たように。ロベルティスが警備員に撤去されるように。大原さんは退場を命じられる。そして女性は嗤われる。

それでも、私は彼女に声援を贈りたい。そして私は寄り添いたい。彼女に伝えたい。

「無駄じゃない、」と。あなたのしていることは、きっと無駄じゃない。そしてあなたは絶対に一人じゃない。

芸術史においてずっと闇に葬られ、いないことにされて来た「女性」が、「モデル」が、夥しい数の女性たちの「性器」が、「血と臓物」が、「エログロ」が、「ブラックシープ」と呼ばれた女性たちが、きっとあなたの傍らに寄り添っている。

私には見える。私はそう信じている。

 

水野ひばり(少年ブレンダ)