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ハムより薄く、海より深い?~女の友情、女の絆~

「女の友情はハムより薄い」というアフォリズム、どこかで聞いたことはないでしょうか。
これに対して「男の友情は海より深い」と言われます(言うか?)。ああ、この非対称性、なんと言いますか、ズキッっと来るのは私だけではないでしょう。
「ズッ友!」ならぬ「ズキッ友!」とそれこそブラックジョークのひとつも飛ばしたくなるほど理不尽です。
ロフトのバレンタイン広告が炎上し、停止しました。

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金田淳子さんの意見は最も代表的なものだと感じます。

ネットでは多くの女性が「女は影で憎しみあう」というメッセージを広告から読み取っています。

一方で、肯定している意見もあります。

柴田英里さんの意見は、「ギスギス」「ドロドロ」も含めて「女の友情」のあり方として肯定している点が、金田さんとは異なるようです。

実は、ロフトの広告を見て私も酷いものだとは感じなかった一人です。
イラストを手掛けた作者の竹井千佳さんですが、彼女のサイトを訪れるとこれまでの作品の幾つかを見ることが出来ます。
一瞥して「女性」、それも比較的若い「少女」が創作テーマだということが判ります。そこでは少女の欲望の対象が男性だけでなく、様々な物、事、場合によっては同性にも向いています。
「少女」の様々な感情や行動を「良いもの」「悪いもの」といった善悪の区別なくポップに描き出すことが彼女の駆使する表現上の「手法」です。
作品がどれも「カワイイ」ものばかりであると同時にどこかにトゲトゲしさ、危うさを持ち合わせているのは、その「手法」が成功しているからでしょう。それが彼女の作品の「良さ」ではないでしょうか。

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バレンタインの広告でなぜ「お前ら蔭では陰険だよね」と言われなければいけないのか理解に苦しむ、日本のユーモアは誰かを馬鹿にするものが多い。
厳しい批判が寄せられたわけですが、一企業の広告で(しかも女性が主要購買層である販促において)初めからわざわざ女性に対してネガティブなメッセージが選ばれたというのは、推定としておよそ非現実的です。
おそらくは、「キラキラ」も「ドロドロ」も等しく扱う竹井さんの「手法」が評価されたからこそ、若い女性が集う売り場の広告として採用されたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

年明け早々に炎上したそごうの「パイ投げ」の広告や、昨年炎上した「キリン」の「午後ティー女子」の広告との類似点が指摘されました。
そごうの広告では、「パイを投げられる女性」という刺激的なヴィジュアルにおいて「パイを投げる人(男性)」が非在化していることに加え、男女平等の理念をあげながら、キャッチコピーでは「わたしは、私。」と自己責任論に落とし込む、明らかな政治イデオロギーが読み取れます。これは最初から意図のある計算が存在していることを意味します。
キリンではある特定の文脈でしか通用しない女性の自虐ネタだったわけです。「表現」の<主体>が変わることで「表現」が全く違うものになってしまう、ということは、最初に計算しておくべきことでしたが、それは出来ませんでした。そこには意図はないでしょうが、この場合、何も考えてない点がむしろ問題です。
ロフトの広告は、そのいずれとも少し違うように感じます。

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意図的な政治イデオロギーなど感じられませんし、竹井さんのようなアーティストは資本社会とタイアップすることが活躍の場です。「主体」が変わってしまって意味が変質する作品は企業には怖くて使えません。これでは単に「クリエーター」としては失格で、竹井さんは始めから企業が使えるようなイラストを描こうとしているはずです。
一方でアーティストの血肉であり、魂に等しい「表現手法」を企業は一体どこまで、そして何だと考えているのでしょうか。ロフトは炎上してさっと引っ込めてしまいましたが、作家の表現手法を単なる「販促手段」としてしか見ていないのだとしたら、これからもヴィヴィットな表現を行う作家を採用しては炎上で潰していくことになります。
今回の広告では竹井さんの「手法」が成功しなかった。つまりアイデアとしてはいいのだけど、単純に失敗している。それで、ネガティブなイメージだけが伝わってしまったのではないかと思います。

「手法」の失敗ですが、イラストがまだ多義的な解釈の余地があるのに比べ、ムービーでは弁解出来ない程、露呈しています。
「うちのカレシマジカッコよくない?」とマウントを取りにいく女の子に対して、友達の女の子は「わかるぅ~超イイ人そうだよね~」と上手にかわします。ここまではいいのです。誰もが、この後起きるだろうことを期待しますが、最初に話しかけた女の子は何も言い返せず黙ってしまうのです。そこで「ズッ友」!とスーパーが入りますが、これでは意味が判りません。多くの人が観てズッこけたのではないでしょうか。私もこれには少々ガッカリしました。

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この後、元気の良いバトルが繰り広げられるわけでもなく、何か友情めいたオチがあるわけでもないのです。
「救いも何もない」んですね。ここで描かれているのは「本当にただのギスギスした関係」でしかありません。

ところで、アート表現における「ドロドロポップ」とも言うべき表象は、決して新しいものではありませんでした。
大野左紀子さんは次のように述べています。

あくまでもカスタマー寄りの意見が金田さんだとすると、表現のあり方に注目する柴田さんは作家寄りの意見です。
いずれからも距離を取った、俯瞰したスタンスからも発言しているのが大野さんの特徴です。

 ひとつの「作品」「表現」として見た時、女性の「良い面も悪い面」も「リアルな女性」として描くことは十分に了解可能です。しかし、「販促」「商材」として捉えた時にはどうなのか?ここでは、金田さんや他の不快感を感じた女性の意見に一定の筋道が立ちます。
では、「作品」や「表現」でもなく、「販促」や「商材」でもない、「ジェンダーの問題」として描かれる女性の表象を見た時、どんなことが言えるのでしょうか。
(いや、もちろん、「ジェンダーの問題」だからこそ少なくない女性がネガティブなメッセージを受け取ったわけですが…。)

実は柴田さんの意見も、女性の「ギスギス」「ドロドロ」を「悪いもの」「ネガティブなもの」として捉えているという点では、金田さんや他の少なくない女性たちの意見と変わらないのではないかと思います。
決定的に異なる立場があるとしたら、女性の「ギスギス」「ドロドロ」を「悪いもの」「ネガティブなものとして捉えない」ことではないかと思います。これは最初から「ネガティブなものとは捉えていない」わけですから、「ネガティブなものを肯定するかどうか」という立場とは違います。

世間では「女の友情」というと、男性の存在や、結婚、出産で呆気なく崩壊してしまうというイメージがあり、それは「ネガティブなものだ」とされています。
しかし、社会学的な見地に立つとそれは決して「女性の性質」ではなく、「文化的な差異」によって「女性」と「男性」の「階級」が社会に構成されているからだと言えます。
つまり、「被支配階級」において弱者同士が自らの生存を度外視した、掛け値なしの友情を互いに維持することは困難であるということです。
男性にも、女性にも、「陰湿さ」があると思いますが、それが同じものだとは私には思えません。支配者層のそれと、被支配者層のそれが同等のものであるはずがないのです。
しかし、もし、その「陰湿さ」を肯定的に、ポップに捉える理由や必要があるとしたら、それは何だろうか?と想像出来ないでしょうか。
それをもし、ある女性がイマジネーションの源にしているとしたら。それは何を意味するのか。

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この一件は、女性に対するステレオタイプな価値観がもはや「時代遅れ」になりつつあること(バレンタインでなぜ「女性の友情」なのか。男性が男性にあげても良い、「男性の友情」がテーマになってもおかしくない、ということも含めて)、そうでなくとも、少なくない女性がそれに「不満」を強く感じていることを明らかにするものだったと言えます。
しかし、もしかしたら、作者の竹井さんは、女性の「ギスギス」「ドロドロ」を「ネガティブなものとして捉えていない」のではないか。それは成功しなかったけど、本当にジェンダー的にステレオタイプだったかどうか。疑問が残ります。

私自身も女性の「ギスギス」「ドロドロ」をたぶん「ネガティブなもの」として捉えていないようです。
かといって「ポジティブなものか?」と言われると困りますよね。
ただ、少なくとも、この先もしばらくはマイノリティとして生きていくことになるわけだし、女性がマジョリティ化していけば、その過程では女性同士の階級化は避けられません。そうした時、なるべく「良い」「悪い」という枠組みで女性の行動や感情を理解したり、表現するのを私は止めたいということです。
それは難しいことですが、なるべくならそうしたいのです。

ところで、みなさんはあのイラストを見て、グループの女性に見えたでしょうか?
黒子があったり、よく見ると眉や目の形が微妙に異なっていますが、どうしてみんな似ているのか。
もしかしたら、一人の女性の中にある時系列のバラバラな感情や行動が一度に描かれているだけかもしれないとか、私は深読みしてしまいました。