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LGBT セクシュアリティ ジェンダー系の話題

おネエのざっくり仕分けの何がいけないのか LGBTに興味のある人は必読!

テレビのバラエティショーで「おネエ」を分類する次のようなチャート図を見かけることが多くなった。誰もが似たものを一度は見かけたことがあるのではないだろうか。

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また「チャート図」だけでなく、次のように十把一絡げに見なされる「おネエ」タレントだが実はその存在様式、アイデンティティの内実に差異があることを説明するドキュメントも各種媒体で散見されるようになった。

www.news-postseven.comぱっと見、私たちはこうした図解、説明により何か判ったような気になるものだが、ここで何が起きているのかというと、「おネエ」タレントを「ジェンダー」「セクシュアリティ」「アイデンティティ」などの概念を用いることによって「分類」「整理」することである。

「おネエ」だが、元来はゲイコミュニティにおけるゲイ用語であり、ある話法、所作を特徴とする「ゲイのジェンダーに関わる概念」(だった)と言っていい。その分析・解釈には諸説あるが、主に男性同性愛者であるゲイと女性ジェンダーを巡る概念であることは確かである。
しかし、'00年代後期、テレビのバラエティ番組で世間に一般化した「おネエ」はいわゆる「ホモ」「オカマ」のステレオタイプとして拡大解釈されるようになった。ただし、当初から「おネエ」タレントにジェンダーセクシュアリティの「分類」が用いられることはなかったはずである。
メディアにおける「おネエ」のジェンダーセクシュアリティ分類は、人々の「LGBT」への関心や、認知を待ってからであり、「LGBT」ブームを迎えた近年のことだ。例えば、今年6月に「LGBTブームの嘘」と題してLGBTの特集を組んだ「AERA」(’17.6.12 No26)では巻頭にミッツ・マングローブカルーセル麻紀KABAちゃんら「おネエ」タレントにフォーカスした記事が掲載されている。ここでは「おネエ」タレントたちが「LGBT当事者」として扱われているし、コメントしている。

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従って、こうした「おネエ」のチャート図、ジェンダーセクシュアリティ分類は、人々が「おネエ」の存在を「LGBT」(性的少数者)の文脈で理解することが可能になったことを意味している。もう少し踏み込んだ言い方をすれば、人々、世間が「おネエ」の存在を「ホモ」「オカマ」であると同時に「LGBT」(性的少数者)の「代表例」として見なすようになったということであり、「おネエ」タレントも自ら「LGBT」(性的少数者)を意識し、当事者として活動したり、発言する機会が与えられるようなったということでもある。

私たちがテレビ番組で見かける「おネエ」は「タレント業」の一形態であり、確かに「おネエ」タレントはしばしば「ゲイ」であったり、「トランスジェンダー」であったりするわけだが、それが「タレント業」であり「芸」である以上、「おネエ」ジェンダーを振る舞う者が必ずしも「ゲイ」や「トランスジェンダー」であるとは限らない。逆に言えば、「おネエ」として振る舞うことが出来れば、誰にでも可能な役どころが「おネエ」である。「おネエ」であることが、ただちに「ゲイ」「トランスジェンダー」であることを意味しないし、さらに言えば「LGBT当事者」であるかすらも定かではないはずだが、「おネエ」のジェンダーセクシュアリティの分類は、それ以上の問題を私たちに投げかけている。

それは一重に「おネエ」が何者であるとしても、このようにして「ジェンダーセクシュアリティの規定」がそもそも可能なのか?ことなのである。
今、一度、チャート図を見てみよう。

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「おネエ」が「心」「見た目」「体」の三つの側面から分類されている。向かって左側が「男性」ジェンダーであり、右へ行くほど「女性」ジェンダーへと近づくマトリクスの中に「おネエ」タレントたちが配置されている。
まず第一の問題だが「誰が配置しているのか」という問題である。「誰」というのはあくまで抽象的なここでの「定義」であり、テレビ番組の構成作家であったりディレクターであったりするわけではないが、かと言って、テレビの製作者も視聴者も無関係ではない。かいつまんで言えば、「おネエ」をマトリクス上に配置する時、人々は何をもって納得し、思考しているのか?ということだ。つまり、どうしてためらいなくある人をそこに置けるのか?ということなのだ。その者が男か、女か、男に見えるか、女に見えるか、どんな服装をしているか、体がどうなってるのか、それを決定する過程で何が客観性を担保しているのか?ということであり、そこに私たちが日ごろ息を吸うように従う「ジェンダーの規定」があることは疑いようもない。
要するに「おネエ」の分類と言っても、その分類法は、従来の人々が信じて疑わない伝統的な「ジェンダー規定」に基づくものである。

第二に、人のジェンダーセクシュアリティを理解する時、「心」と「体」を分けて考えることが妥当なのか?ということである。私たちは他人の「心」と「体」が「男」なのか「女」なのかほぼオートマチックに、それこそ何の躊躇もなく推測している。もはやある時期からこれは私たちの「習慣」と言っていい。男女のドレスコードに従うか、従ってないか。その人の「心」が「女らしい」か「男らしい」か、体の構造がどうなっているのか。女性器が付いているのか、男性器が付いているのか。誰と誰がセックス出来るのか。どうやってセックスするのか。そうしたことで、その人が理解出来ると考えているのだが、それは果たして「正しい考え方だと言えるのか」どうか?ということである。

いわゆる「おネエ」は一般的に「男性」であるが、チャート図における「おネエ」が「LGBTブーム」の影響により、「LGBT当事者」(性的少数者)として見なされていることは疑いようがない。先述したように「おネエ」だからと言って、性的少数者であるとは限らないが、チャート図は「おネエの分類」であると共に「男性の性的少数者の分類」でもあると言える状況を作り出している。つまりチャート図が何をしているかというと、男性の性的少数者である「ゲイ」~「トランスジェンダー」の連続を分類しているのである。
第三の問題は、「おネエ」のチャート図が、事実上、その意味合いから言って、「男性同性愛者であるゲイ」から「男性から女性へと性別を変えた」トランスジェンダーMtFのグラデーションを分類、整理するものであることの問題だ。これは「おネエ」であるからといってただちにその者がゲイやトランスジェンダーではないという以前に、LGBT性的少数者にとって非常に深刻な問題である。

以上、簡単に「おネエのざっくり仕分け」における問題点を述べたが、「チャート図」を自然科学の立場から大きく見直してみよう。例えば次のようなチャート図による「日本人の分類」がなされたら、どうだろう。

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心が「日本人」「朝鮮人」、見た目が「日本人」「朝鮮人」、体の構造が「日本人」「朝鮮人」による「日本人の分類」である。「日本人」という概念の中に既に「人種」「民族」「国籍」概念の錯そうが見られるのだが、そうした問題を不問にして、ここでは精神的・身体的特徴から(それが可能かどうかは別として)「日本人」が創出されている。
ジェンダーセクシュアリティにおける問題をそのままエスニシティの問題に置き換えることは出来ないし、そのような乱暴な思考は本稿の批判対象である。が、ここでは問題を判りやすくするために、あえて、仕方なく、泣く泣く、置き換えている。そうまでしなければ問題の所在が掴めないほどに私たちの意識は低いのだ。
本稿を読んでいる読者の中には日本、アメリカ、中国、韓国、朝鮮…等々この他様々な国籍を持ち、その上で様々な民族アイデンティティを有する多様な人たちがいると考えられる。しかし、例えばこのようにして自分が「日本人」の中に分類されたら、どう感じるだろうか。誰が何人でどこの生まれで、精神的に何人なのか、誰が何の権利でどうやって決めるのだろう。このようなことを自分に断りなく誰かが勝手に決めてしまい、それが多くの人々の目に触れるような場で発表され、ちくいち自分の見も知らない他人がそれに頷いていたら、あなたはどう思うだろうか。憤りを感じないだろうか。これが人道的、社会的にいかに野蛮であり、差別的な事態であるか、説明する必要はない。
レイシズム」でよく知られる「人種」概念だが、人の集団的差異を精神的、身体的な特徴・統一により分離・分類することは過去、ホロコーストなど多大な悲劇と被害をもたらしたとして反省され、自然科学の立場からは否定されてる。

再び「おネエ」のチャート図に立ち戻ってみよう。ここでは「おネエ」のジェンダーセクシュアリティが「心」「見た目」「体の構造」で分類されている。しかし、そもそも人のジェンダーセクシュアリティを「心」「見た目」「体の構造」で分類することは本当に可能なのか。出来るとしても「やっていいことなのか、どうなのか」。何か大変なことをしていないだろうか。よく考えて欲しい。
そして最低でも私たちは、上のようなエスニシティにおいて差別的な例をわざわざ用いなくても、すぐにそれを「やってはいけないことだ」と直感出来るだけの知性を持たなければならない。

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切り抜きは今年6月の「AERA」(’17.6.12 No26)、LGBTの特集で寄せられたカルーセル麻紀のコメントである。「2004年に戸籍も女性に変えました。でも私の本質は男です」と語っている。見出しには「男性性を残し生き残る」とまで書かれている。ちなみに先のチャート図でカルーセル麻紀は、「心」「見た目」「体」いずれも「女性」として「ニューハーフ」に分類されている。カルーセル麻紀と言えば'60年代から活躍してきた「おネエ」の草分けであり、「モロッコで性転換をしたニューハーフ」として知られている有名人である。見た目は「女性」に見えるはずだ。性適合手術を受けているのだから、俗に言う「体も女になった」という状態であるが、では手術までするぐらいだから、カルーセル麻紀の心は「女性」だろうか?しかし本人は「本質は男」と語っているのだから、見た目も体も「女性」だが、心は「男性」だろうか。
カルーセル麻紀は本来、このチャート図ではどこに位置するのだろうか、と言って、問題はそこではない。

カルーセル麻紀が「トランスジェンダー」であるかどうかは判らない。本人は「自分はゲイだ」というかもしれない。しかし、ここでは、カルーセル麻紀トランスジェンダーであるかどうかは大きな問題ではない。ただ、性別を変える者、またトランスジェンダー、あるいは「性同一性障害」と診断される者の中には、カルーセル麻紀のように「見た目」や「体の状態」に関わらずジェンダーアイデンティティを語る者が一定数存在している、ということである。
これはジェンダーセクシュアリティを語る上で極めて重要な問題だ。

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「心の性と体の性が一致しない」と付記されている「トランスジェンダー」の説明文をよく見かけるが、「心の性と体の性が一致しない」ことから性別を変える人たちは、トランスジェンダーの中のごく一部である。数多くの者が、実際には様々な心理的要因、経済的理由、文化、習慣からトランスを行っているのが現実だ。
実は、カルーセル麻紀のような存在は決して特殊な例ではなく、性別を変える人たちのあり方としては一般的に「よくある」存在様式であり、トランスジェンダーの存在を全て「心の性と体の性が一致しない」人たちとして説明することの方が不自然で、歪な事態である。
見た目も女性だし、性適合手術を受けても「自分はゲイである」という自己アイデンティティを持つMtFも存在している。客観的に言うと、男性の性的少数者である「ゲイの多様性」と「トランスジェンダーの多様性」は重なり合い、影響を受けながら成り立っている。ゲイからトランスジェンダーの多様性を横断するようにトランス現象を体験する者もいるということである。一般的に「ゲイ」と「トランスジェンダー」は異なる存在である。しかし、ゲイとトランスジェンダーには連続性が認められる。そして「性別のトランス現象」はゲイとトランスジェンダーのカテゴリーに対して横断的であり、不規則に生じている。

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トランスジェンダー」の説明として「心の性と体の性が一致しない」は定石だが、トランスジェンダー性自認や身体的な性別、性指向性とは全く無関係にトランスしているのが実態だと言っていい。ゲイ~トランスジェンダーのグラデーション、多様性を「見た目」や「心」「身体の状態」から分離・分類することはほとんど不可能ではないかトランスジェンダーたちは勝手気ままに、不規則に、ある条件の中でトランス現象を体験し、それを自分のものとして生きている。確かなことはそれだけであり、それ以外は何ひとつ確かなことではない。
その者のジェンダーアイデンティティを知りたいだろうか?しかし、それを知って一体どうしたいのだろう?

「おネエ」のチャート図だが、ここで行われていることは、ある特定の職業に就く人々へのジェンダーセクシュアリティの分類であり、序列化であり、整理整頓であり、言ってみればそれは「他者によるアイデンティティの規定」だ。「他者によるアイデンティティの規定」は「おネエ」が「ホモ」「オカマ」のステレオタイプを人々・世間に供給し続ける一方で、にも拘わらず「LGBTの代表例」として「おネエ」が受容されている現在、事は「おネエ」だけの問題ではない。「他者によるアイデンティティの規定」が「おネエ」に可能だということは、そのまま「LGBT」にも可能だということを意味している。
しかし、考えてみて欲しいが、そもそも「LGBT」の概念が提唱されるのはなぜなのか。それは人の「ジェンダー」「セクシュアリティ」に関わる属性、アイデンティティが、人の生物学的、身体的、形質的な特徴によらず、また伝統的ジェンダー観によらず、尊重され、守らなければならないものだという人権・人道上の理由によるものである。そこでは他者による性別アイデンティティの強制、決め付けが否定されている、ということが大前提である。性別アイデンティティが他人から強制されない。「自己の性別アイデンティティを自分で決定し、主張出来ること」というのが理念なのだ。

簡単に言えば、男に見えるからといって性別アイデンティティが男とは限らないし、女に見えるからといって性別アイデンティティが女であるとは限らないということであり、ゲイにしても、トランスジェンダーにしても、身体的特徴、性指向性、性自認による統一的分類、一定のステレオタイプに収まるものではない、ということである。

世間の人々は言う。「男に見える」と。あるいは「女に見える」と。もしくは「心は女」だと、あるいは「心は男」だと。「女のような恰好をしている」と。「男のような恰好をしている」と。「オネエ言葉」を使っていると、あるいは使わないと。また「男が好きだ」と。「女が好きだ」と。しかし、ある者はゲイであり、またある者はトランスジェンダーであるところの我々は知っているはずだ。こうした他者による規定から本来、ゲイやトランスジェンダーは自由であり、私たちはその自由を体験しているのだと。そこでは各々が感じたままに、勝手に、バラバラに、不規則にゲイであることを、トランスジェンダーであることを体験しているはずではないだろうか。
私たちに必要なことは、ジェンダーセクシュアリティを巡るアイデンティティの不規則性を分類し、整理し、そこに収まって、人々に理解されることだろうか?
違う。我々に必要なことは、我々が不規則であることの多様性を多様なままに、不規則なままに、そのままで人々に受け止めてもらうことではないだろうか。
だから、人がチャート図や、性指向性、性自認などの概念を用いて、私たちを分類しようとした時、私たちは「LGBT」のカテゴリーを超えて、共に、必死に抵抗しなければならない。
もはや「おネエ」の問題ではない。
これは、私たちのアイデンティティの危機」なのである。