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「幸色のワンルーム」は許されるのか~誰が彼女を監禁しているのか?

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「幸色のワンルーム」(作者/はくり)が実写ドラマ化されるということで反響を呼んでいる。原作は2016年9月20日に『世の中いろんな人がいるという話』と題してTwitter上で発表された漫画作品だ。発表された当初から爆発的な人気を博し、現在までに4万8千件以上リツートされている。2017年2月から無料マンガサイトpixivコミックでも連載、次々と書籍化されたコミックス版は重版含め累計75万部を突破、アニメイトでは缶バッチ3個付きの限定版まで出る超大ヒット作となった。
作者のはくり氏のTwitterフォロワー数は20万人。発表直後の「世の中…」は作品と言っても当初はラフ画の域を出ないものであり、作者自身ですら作品がここまで成長し、影響力を持つことを想像出来たか定かでない。思い付きでアップした作品がエキセントリックにもてはやされ、ついに実写ドラマにまでなるほど上り詰め、作者は一躍時の人になる。まさに「SNSの申し子」のようなコンテンツである。

しかし、周知のことだが、同作品は現実にあった「朝霞市女子生徒誘拐事件」をモティーフにしていると当初から批判が殺到した。今回、実写ドラマ化についても大変な反発が集まっている。

2年前に行方不明になった当時中学1年の少女が青年に監禁されていたという「朝霞市女子生徒誘拐事件」だが、例によってTwitter2chでは「二人は同棲していた」「二人は愛し合っていた」「男性は家出少女を保護したが、誘拐犯になってしまった」などといった無責任な人々の憶測が方々に飛んだ。テレビコメンテーターは番組で「少女は賢くてなにかしら安心感あったから逃げなかった」とまで発言している。

同作品は「誘拐された少女」と「誘拐犯の青年」の奇妙なラブストーリーとして知られている。一見して立場の異なる若い男女の利害関係が一致し、逃避行の末、互いに惹かれ合うといった、よくあるボーイ・ミーツ・ガールだ。悪く言えば紋切型であり、ラフ画に近い素人の作品がこれほどまでに話題となったのは、実際の事件と人々の無責任な憶測が追い風になったと言われている。作者は事件との関わりを否定しているが、少女が保護されたのは2016年3月24日、作品の発表時期や本格的にバズるまでにタイムラグがあることも確かだ。
作品への批判が再加熱している一方で、実写ドラマを歓迎する声も数多く寄せられている。ざっと見たところ女子が比較的多い印象だ。強い反発がある中で特に若い層を中心に同作品が支持される理由は何だろうか。被害者バッシングや少女誘拐を肯定するために人々が共感しているというのも考えにくい。

 「幸色のワンルーム」の原作「世の中…」は現在でもここで読める。描き下ろしのコミックス版は変更点も見受けられるが、大筋、テーマにおいて根本的な違いはない。「読む必要もない」と切り捨てている反対者もいるが、批判対象を観察しないで批判は出来ないので、批判するにも一読はされたい。
読んでみると幾つかの点に気付くことがある。
最も大きな点は「誘拐ではない」ということだろう。「世の中…」(幸色)の「誘拐犯」とされる青年は、「少女」を「誘拐」したのではなく「自殺」しようとした彼女を「誘拐」という形で「保護した」、つまり「助けた」のだと判る。「少女」は家庭で虐待、学校ではクラスメイトからの「虐め」、担任教師からの「セクハラ」に怯える日々を送っており、人生に絶望していた。青年は後ろ暗い過去を持ち、自分と向き合えない毎日の中、自己を投影出来る存在として「少女」と出会う。
読んでみると、ありがちな話ではあるものの、決してつまらなくもないのである。読者の中二マインドを刺激する展開もある。中盤、教師との駆け引きに出て失敗し、絶体絶命の少女を青年は再び助けるが、そこで「本物の誘拐犯です」と厳かに登場する彼は、まるでお城に閉じ込められたクラリスを救うべく参上し「泥棒です」と一言宣うカリ城ルパン三世である。「SDカードを渡すから彼女を放せ!」「指輪はここにある。クラリスを放せ!」はお約束の展開だ。似ていることや、稚拙であることは問題ではない。「漫画」の場合、技術的な問題はネックではない。メッセージが読み手に伝わるかどうか、単純に何がしたいのか、何が面白いのかどうかであり、稚拙であることや、門切り型であることは、逆にメッセージ伝達と面白さを促進することもある。
その上で、感想を述べると、本作品が人々の共感を得た魅力は主人公ら「共に居場所がない」という一点に尽きるのではないか。その「居場所のなさ」は顰蹙をかいながらもコツコツと不器用な線の塊をアップし続けた当時の作者のはくり氏の姿にも重なる。それを密かに待ち望み続けたファンにも。現在、コミックス版の4巻を迎えたはくり氏の画風はかつての所在のなさを感じさせないほどに見事な変貌を遂げている。

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「居場所のない」こと。「孤独である」こと。「虐め」、信頼出来ない「教師」「親」…。「似た者同士が寄り添いあう」という点だけを汲み取れば、「社会的弱者の物語」だとも言える。世代的な感想も加えればかつて「純愛ブーム」を巻き起こした「セカチュー」現象(「世界の中心で、愛を叫ぶ」片山恭一)である。もちろん物語としては異なるが、数多くの純愛物語がそうであるように、「世の中…」(幸色)も例に洩れず「死」を身近に感じ取る若者の「自分探し」の神話だと言えば、そのものである。もしこれがサブカル的に「セカイ系」と定義出来るなら、おそらく名実ともに「平成最後のセカイ系」になるだろう。

この作品は大人には退屈だが、ある年齢層の者にしか伝わらない「面白さ」の要素を備えているのではないか。しかし、ただ、しかしである。そう感じる一方でやはり、この作品と「事件」は不可分ではないとは言えない。なぜそう感じるのだろうか。
この作品は「事件をモティーフにしている」と批判されているが、読んでみると「事件と似てない」。青年は少女に性的な暴力を加えるどころか、むしろ大人の暴力から少女を救っている。似ているどころか、事件と「物語」は内容的には全くの別物である。しかし、私も含め、このドラマに反感を抱く大人は事件と無関係だとは考えないだろう。
「この作品は事件とは似ていない」。そうである。この作品は事件に似ているのではなく、事件を揶揄した数多くの人々の無責任な発言に似ている、のである。
「誘拐ではなく同棲(共同生活)だった」こと。「愛し合っていた」のではないかということ。「逃げようと思えば逃げられたはず」であること。「男性は家出少女を保護したが、誘拐犯になってしまった」こと。事件に対して「こうだったらいいな」という人々の夥しい凡百の妄想とこのドラマが見事に一致していることが問題なのだ。
あるいは、公判で責任逃れをする寺内被告の言葉と「逃避行のドラマ」は似ている。
事件の初公判で寺内被告は「誘拐して数日から数週間は監視していましたが、それ以降の2年間は、外出もしていたので、監視していた意識はありません」と述べている。
「生きる目的が欠如し、引きこもる方が好ましいと感じていた」「君は家族から見放されている。帰るところはない」「自分と同じく社会から隔離された人間を観察したかった」。
寺内被告の脳内では、それは「誘拐」「拉致」「監禁」ではなく、まさに一種の自己再生の「ドラマ」のようなものだったかもしれない。彼のアイデンティティに関わる問題だったかもしれない。そう、例えば「幸色のワンルーム」のような、である。故に「誘拐だけど誘拐ではない」のである。
作品が事件と似ていないように、寺内被告の供述が事件と乖離していることが<物語>としての形而上の類似点だと言えばいいだろうか。
例えば、判りやすく言うと、事件後に寄せられた被害者バッシングのコメントや身勝手な人々の妄想、寺内被告の弁明を寄せ集めれば、確実に「幸色のワンルーム」的なドラマがひとつ出来上がるということである。

そう考えた時、再び原作を振り返ってみると、少しでも無邪気に面白いと感じてしまった自分に私はぞっとしてしまうのである。もちろん、こうなると「幸色…」だけの問題ではなく、類似する物語の消費行為全てについて我々は反省しなければいけない。
私たちはある事件が起きた時、様々な想像を巡らし、つい言いたいことを言ってしまうものだ。あるいはインスパイアされて何か作品めいたものをひとつ作ってしまうかもしれない。しかし、それは人として一体どこまで許される行為なのだろうか。このドラマを共有することで、我々は責任逃れをする寺内被告と同様の罪を犯してないだろうか。つい面白いと感じてしまった私は彼と同罪ではないだろうか…。

本事件は3月12日、寺内被告に懲役9年の判決が言い渡され一応の決着は付いたものの、まだ終わっていない。なぜならば、被害者の少女はこれからも生きて行かなければならないからだ。

ドラマ化にあたって少女役に抜擢された山田杏奈さんはキャストコメントで次のように述べている。「背景はお兄さんが撮った盗撮写真」(「盗撮写真」!である)などというハッシュタグまで付いている。もちろん一介のタレントである山田さんが悪いわけでは全くない。ここでタレントが正論を吐いても干されるだけで何の意味もないことである。

 「誘拐犯と被害者という関係の中で幸せを求めて生活していくというお話しです。私自身、特殊な環境にある、普通じゃない幸という女の子を演じることが毎日すごく楽しくて、充実した日々を送っています」

では、法廷で読み上げられたという被害者の少女が書いたメモとその内容を比べてみたい。彼女は次のように綴っている。

「家族と過ごしたり、友達と笑い合っていた元のように戻りたい。早く寺内を捕まえて。私の生活を返してよ。早く。早く」

この二人の少女のギャップは何だろう。我々はそれについて想像し、そして震撼すべきである。少女は被告について「無期懲役にしてほしい」と語っている。多くのティーンエイジャーが事件の悲劇性より、自分たちの「居場所がない」というメッセージをこのドラマから選び取ったのだとしたら、その「意味」は慎重に汲み取られる必要がある。大事な事だ。だが、被害者の少女の居場所は一体どうなるのだろう。これでは被害者の少女はワンルームから脱出しても、実質、ずっと閉じ込められたままではないか。

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被害者の少女にとって2年間がどんなものであったか到底我々に伺い知ることなど出来ない。出来てたまるはずがない。それは誰にも簡単に理解出来てはいけないのである。
今後、彼女は、ずっとその空白の2年間に向き合い続けて生きて行くことになるのだが、それをまた別の少女が全く異なるドラマとして伝えている様を我々は娯楽にしようとしている。
このドラマを自分の子供が消費している時、その子が中一の少女だったとして、あなたはそれを見てどう思うだろうか。それを取り上げる必要はないかもしれないが、その時、我々は親や大人として何か言うべきことがあるのではないか。
被害者の少女は今も監禁されている。我々の妄想の中にである。

 

追記(例によってストライクのレインボー案件ではない/かもしれない、のだが、自分の中では明らかにジェンダーセクシュアリティを巡る案件なので言及)

画像参照 2年間の女子中学生監禁、部屋の写真を入手!千葉大生の「おぞましい行為と精神」Business Journal

『幸色のワンルーム』【公式】7月クールドラマ

参考URL フラッシュバックに苦しむ被害少女、社会復帰へ努力