レインボーフラッグは誰のもの

LGBT セクシュアリティ ジェンダー系の話題

「ぜ」と「トイレのマーク」と「セクシズム」後編

「セクシズム」とは性別規範を自明視すること

 今までの話の流れから言いますと、『日常で普通に男性や、一部女性にも使われる言葉』だからこそ、問題なのです。

「日常的にやってるから差別じゃないでしょ」が問題なのです。

つまり、運動の場でも、職場でも、学校でも、役所でも、病院でも、いつでも私たちは当たり前のように「男女」を前提にして物を考え、話し、思考しています。ずばり、それ自体が「セクシズム」だということなのです。

ここで言う「セクシズム批判」というのは「男が偉そうにしている」とか、そういうことではありません。目の付けどころ、切り口としてはそうかもしれません。しかし、ポイントは『男女の規範を自明視している』『それを当たり前だと感じている』こと、それが「セクシズム」だということなのです。

 セクシズム批判で言うところの「男」とは一般的な意味での「男」ではありません。

「男性」とは男性一般のことではなくて「性別システム」のことです。「男女の規範」を運用する主体、仕組みのことを「男性」「男性的だ」と言っているわけです。

ですから批判されるべき「男言葉」というのは、ただ「男っぽいから」なのではなく、それが「男女の規範に従った言葉」だし、また「男女の規範を強制する言葉」だから批判されるのだということなのです。

例えば、女言葉だったとしても、それが「男女の規範に従った言葉」であり、また「男女の規範を強制する言葉」なら同様に批判されるでしょう。

逆に男言葉でも性別規範をかく乱する脱ジェンダー的なものをセクシズムと批判するのは困難です。

おさらい

●セクシズムとは?

  1. 男女の規範を自明とすること
  2. 「男性」とは「性別システム」のこと

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●セクシズムとは「男か/女か」ではなくて、「性別システム」の構造の問題

だから男を女に変えれば問題ないでしょ?とはならない。女だったら問題ないか?というとそういうわけでもない。

男女の規範を当たり前だと感じている以上、「ぜ」か「よ」か言い換えても何の意味もないことです。

 

「普段使ってるじゃないか?」というのは「普段から男女別のトイレを使ってるじゃないか。何がいけないのか?」「男が女を好きになり、女が男を好きになるじゃないか。何がいけないのか?」と言っているようなものです。

いけないわけではないのですが、問題は「男女」を当たり前だと感じているその「普段」にあるのです。

トイレが男女で別々であること、その前にある「男女のシンボル」に何の違和感も持てないこと、「東京大行進」の意匠をカッコイイと思うこと、男は女に「~しようぜ」と言うものだということ、これらを「当たり前のように感じている」「そういう日常に何の疑問も持たず生きていること」、その「当たり前」が問題なのです。

私たちの社会のその「当たり前」が問題なのです。

 

マジョリティもマイノリティも関われる運動、みんなが入りやすい運動とは何か?

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仲良くしよう(ぜ)はセクシズム?

①『性別規範を自明視している』という点でセクシズムであり、市民運動におけるジェンダー問題でしょう。

市民運動、反差別運動のスローガンが「性別規範を自明視している」ことの問題。これは大きい。

 

セクシュアルマイノリティ目線で見ると、「東京大行進」は男女二元論主義的なトイレ/男女のシンボルを頂点に民族差別反原発、女性問題、LGBT、IHV、障害者問題、無政府主義などなどのフロートが続く、実にシュールでヒエラルキーなパレードです。

もちろんみなさん一所懸命で純粋な気持ちで行動されていることはよく判っています。左派も右派も、男も女も、民族的マジョリティもマイノリティも、性的マジョリティもマイノリティも、みんな想いはひとつでしょう。

しかし、しかしですね、もう一度、よく考えて欲しいのです。

一体何をやってるんだ?ということです。

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実にこれだけ多くの人が運動の場に男女の規範が持ち込まれることを何とも思ってない…当たり前のように受け入れている、そういう現実がここにある、ということなのです。ま、驚くべきことでもなんでもなく、マイノリティの日常とはそんなものですが。

ところで「東京大行進」には少なくないゲイを初めとするLGBTが参加しています。女性問題に関心を持つ女性もお見えですね。

性別システムへの問題意識が全く欠如している運動はレインボーに相応しいと言えるでしょうか。また、ジェンダーに全く無頓着であるどころか再生産し、再配置してしまうような運動体をフェミニズムと呼べるでしょうか。

LGBTや女性がジェンダーイシューを提起出来ないで、一体この世のどんな人々が出来ると言うのでしょう。

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 現代ではマイノリティとマジョリティの関係は数の問題ではありません。

民族的マイノリティの人が別の局面、性的属性においてはある人に対してマジョリティになり得ます。

「マイノリティとマジョリティの関係が変わる」というのが今日的な権利と権力を巡る関係の問題であり、そこにアイデンティティポリティクスの相克と困難があるのだと言えます。

『「仲良くしようぜ」のどこがいけないんだ?いつも使ってるじゃないか?』という言い分を民族的マイノリティの人が言ったとしても、それは性的マジョリティの「居直り」なのです。マイノリティの解放運動であり、民族差別の告発なのにそのスローガンでマジョリティの居直りを積極的に使うこと、またそれを「仕方ない」と「カッコイイ」と許すこと。そのためにレインボーの旗が振られること。それは欺瞞だし、ダブルスタンダードです。

 

些細なことだと思うでしょう。あるいは目的のためには仕方ないことだと。しかし、そういう人は自分がなぜマイノリティであるか思い出して欲しいのです。「大義があるから」「細かいことを言うな」「目的のために一致団結」まさにそのようにしてマイノリティは排除され、マイノリティになったのではないでしょうか。

どうすればいい?

これはみんなで気を付けて行きたいことです。

  1. まずジェンダーの指標になるような言葉、図像、記号を使わない
  2. 相手が男でも女でも構わないユニバーサルなデザインやアイデアを目指す
  3. 「男だから~だ」「女は~だ」というような性別規範の押し付け、決めつけを止める

つまりこれ、どういうことかというと、使い古された言葉だけどpolitical correctness (PC)に真面目に取り組むということです。PCとしては「鉄板」だと言えるようなことは最低限、遵守する。これが基本、これが基本です。

またか、と思う人もいるでしょうが、これはもう今日日、市民運動でも、職場でも、学校でも、やんなくちゃいけないことなんですよね。

それが日本では「いつまでたっても出来ないよね」、「特に運動の場が最も遅れてるっぽいのってどういうこと?」です。

ましてやLGBTだとかレインボーだとかいう話になったら、どうしても必要なことなのです。それは今まで書いて来た通り「性別で困っている人」がセクマイですから。

もし反在特会、反レイシズムのためにPCが遵守出来ないと言うのであれば、もうレインボーの旗なんて要りませんよね。ゲイである必要もないでしょう。

だったらいっそ旗なんて破り捨てなさい。ゲイもすっぱり止めればいいと思います。「プライド」なんて要らないでしょう。というより「プライド」が「ない」じゃないですか。

 

(ぜ)を「当たり前」のこととして受け入れてしまったLGBTのみなさん。みなさんには考えて欲しいことがあります。

そのレインボーは誰のためのものなのか?何のためにあるのか?

セクシュアルマイノリティは、なぜセクシュアルマイノリティなのか。私たちは何に苦しんで来たのか。社会がどう変わって欲しいのか。LGBTがどんなものであって欲しいのか。

どうか、よく考えて欲しいのです。