レインボーフラッグは誰のもの

LGBT セクシュアリティ ジェンダー系の話題

性別二元性規範と女性差別

  1. 性別二元性規範が持つ、いわゆるセクシュアルマイノリティへの差別性の問題
  2. 「セクシズム」と通常呼ばれる女性差別の問題

はもう少し切り分けられそうな印象。

ひばりさんの考察は「ぜ」問題を(1)の視点から再考するものであるように見えて、それはなるほどど思ったのだけれど、当時議論になっていたのはどちらかといえば(2)のほうだったのではないかなと思う。だからこそこの再考には意義があるとも言えるけど。

個人的には性的多様性の問題に関して大きな疑問を感じたのは、東京大行進が結婚に重ねられて賞賛されることでその批判者たちへのあてつけのような発言がおこなわれたとき、そしてそのことへの批判がほとんど受け止められなかったときだったなあ。

小宮友根 @frroots https://twitter.com/frroots

欲を言うと、セクマイ界隈にも沢山レイシズムがあること、セクマイ差別の切実さその他の口実でセクマイ界隈の中のレイシズムが容認されている現実があること、等も同時に挙げておくと、これは誰か特定の人の問題ではなく、どこにでもよくある問題、カラクリや構造の問題だ、とより伝えられたかも。

その上で、既に @frroots さんが書いているけど、ひばりさんが書いてくれたのは「セクシズム/女性差別」の論点というより、「男女という制度」や性別規範/性別二元主義それ自体の論点だよね。。ということは、覚えては置きたい。

なぜなら、トランス文脈だと、女性差別の課題が不可視化される事もよくあるからです。本来は排他的ではないこの二つの論点の重要さを「それぞれ別個に」も理解しておくことで、「どっちが大事か」みたいな不毛な争いを避けて、両方を同時に考える可能性が高まるから。実は今朝ざっと記事を読んだ時、もしかしたら「女性差別の不可視化/後景化」みたいな批判が来るかも、と一瞬危惧したんだけど、@frroots さん、その辺もちゃんと分かって両方を問題化するアプローチをしてくれたのがよかったと思います。ホントにちょっと前だと、トランス文脈の意見というのは、フェミからも叩かれたり無視されてきたので、今回トランス文脈を踏まえて/理解しようという方向性をもって発言するクィアなアプローチをしてくれる人がいたのは嬉しい。

あと、主語が「セクマイが」「レインボーが」となっている部分の多く、実は内容的には「トランスジェンダーが」なところが多く、これでは「ゲイ」が「セクマイ」を私物化している言い方と同じかも、とも思った。まぁ、今の日本では「あえて」そう書くことで、読んだ時の違和感を喚起し、ゲイ中心主義を可視化相対化できるという面もあるのでいいのかもしれないけど。

ひびのまこと @hibinomakoto https://twitter.com/hibinomakoto

 皆様、こんにちわ、ひばり「くん」こと、水野ひばりです。前回の記事『「ぜ」と「トイレのマーク」と「セクシズム」』にはたくさんのアクセスがありました。ありがとうございます。

上記は小宮さん、ひびのさんのリアクションです。Tweet元はこちらにまとめてあります。

今回はお二人の意見から私が重要だと感じることについて、お伝えします。

お二人の意見は似ていて、実は微妙に違うのですが、次のように読み取りました。

  1. 「性別二元性規範が持つセクシュアルマイノリティへの差別」と「セクシズムと通常呼ばれる女性差別」の問題
  2. LGBTを語る上での「主語」の問題(アイデンティティ・ポリティクス)

どちらもすごく大事な点だと考えます。

まず①から。

 

セクシュアルマイノリティへの差別」と「女性差別

通常呼ばれるところの「女性差別」、例えば「職場でのセクハラ」などの告発で男女二元性規範が論点になることはありません。誤解している人も多いのですが、フェミニズムの問題は、多くの男女にとって必要で有益な情報交換として提起されるわけです(それが男性にとって都合の悪い情報源であったとしても)。一般的な女性差別フェミニズムの課題は男女二元性規範、異性愛主義に矛盾しません。そうでないと話が成立しないはずです。

しかし、運動体が採用するスローガン、テーマやプロトコルジェンダーイシューが深く関わることを、日常的な慣例、習慣、ジェンダー指標を通して説明するのは極めて困難でしょう。

つまり「~しようぜ!」とある男性が言ったら即「はい差別~!」といった様な指摘は、多くの男女にとって極端です。これは男女、セクマイを含めて、ほとんどの人が理解不可能ではないかと考えます。そして現に相手はそのように感じています。

 そうした場合、何から説明すればいいでしょうか。

ここでハッキリさせておきたいのですが、私はこの議論において「セクシュアルマイノリティの差別」を主張したいのではないということです。それも大事なことですが、ここでの提案は「セクシュアリティの問題系」を通して「性別規範を対象化する」、私たちが日ごろ前提とする世界観を客観的に捉える、あくまでそのための論点なのです。(問題が切り分けられてない感じはあったと思います)

セクシュアルマイノリティの差別」ではなくて、多くの『人々が何を前提に物を考えているのか』そこを問題化しようということです。

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レインボーの旗を持つということは、こうした問題意識にコミットすることだよと、そういう話がしたかったわけです。

 

性別二元性規範の問題化と女性差別の可視化は矛盾するか?

常識的に考えて矛盾しないはずです。ひびのさんと小宮さんの論点は微妙に違いますね。意味合いとしてはひびのさんも同じことを言ってるのでしょう。しかし、ここはあえて拘ります。というのも、ひびのさんの話法として非常に気になるからです。

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ところで「セクシュアルマイノリティへの差別」が前景化すると、一般的な「女性と男性」の関係が相対化されるので「女性差別」が見えにくくなる、語りにくいということは確かにあると考えられます。

セクシュアルマイノリティの存在」によって「男女」で権力関係が完結せず、その関係の力点が「セクシュアルマイノリティとセクシュアルマジョリティ」の関係へとシフトすることが原因だと考えています。

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パラダイムが変わることで見えにくくなる問題もありますが、見えるようになる、可視化される論点もあります。そして(ぜ)問題においては、次のような関係の可視化は必要なことでしょう。

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トランスの文脈だとなぜ女性差別が不可視化していくのか?

例えば「トランスジェンダー女性」の行動原理や自己表現、「女装パフォーマンス」が性別二元性規範を強くサポートし、再生産すると「女性差別の不可視化」や「ミソジニー」を発揮します。

MtF自身が「性別二元論者」であり、またその「欲望」に従って行動すること。ジェンダー規範を内面化し、社会的には男性特権のポストにどっかり居座っていること。「女性」というより「女性化した男性」であって「女性としてのマイノリティ性」「社会的弱者性」から無縁の存在であること。そうしたことが原因です。

そのようなトリッキーな存在による差別の問題提起や、社会運動への参加は確実に「差別」を不可視化します。

トランスの文脈で女性差別が不可視化するのは、トランスジェンダー女性が『「性別二元性規範」を真に問題化しないから』起こることです。

 

しかし、逆になぜ「性別二元性規範の問題化」が「トランスジェンダー中心主義」になるのか?ということです。

文中で「トランス(トランスジェンダー)」という言葉が登場するのは一度きりです。

ですから、昨今のLGBTというのは「ゲイだけではない」「男だけではない」そして「L(ビアン)、G(ゲイ)、B(バイ)、T(トランス)だけではない」というのが基本中の基本です。

父権を告発するフェミニズムを「女性中心主義」などと批判できないでしょう。あるいは「女性専用車両」を「逆差別だ」と言うのは的外れなわけです(ここでは特にそれについて説明はしませんが)。

しかし、ひびのさんは性別二元性規範を語る主語、主体が「セクマイ」や「LGBT」ではなく、暗に「トランスジェンダー」になっていると感じたわけです。

おそらくトイレの話が「トランスジェンダー」を連想させるということなのですが、しかし「アイデンティティが性別規範と衝突する」事態はトランスジェンダーだけではなく、セクシュアルマイノリティを語る上で極めて妥当で普遍的な論点です。それは「ゲイである」というアイデンティティよりもです。この問題は、私がトランスジェンダーだからなのではなく、誰かがゲイだから、という話なのではなく、もっと視野の広い話ではないでしょうか。ひびのさん、どうでしょう?

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これはいわゆるアイデンティティ・ポリティクスではありません。LGBTセクシュアルマイノリティを語る上で、構成される人たちがアイデンティティの在り方に関わらず、共有しやすい普遍性のあるテーマは何なのか?という問題なのです。

アイデンティティ・ポリティクスと社会運動について

ひびのさんの主語の問題は、アイデンティティ・ポリティクスの問題でもあると言い換えて良いでしょう。ただ、私はもともと『アイデンティティ・ポリティクスの話ではない』、もっと普遍的な話だと感じています。

しかし、アイデンティティ・ポリティクスについていくつか論点が見受けられるので、私自身、この件についてみなさんに言いたいことが強く生じています。

そこで、この問題は次回にしたいと思います。

 

次回→ アイデンティティ・ポリティクスと社会運動