みなさん、こんにちわ。「少年ブレンダ」こと、ひばりちゃんです。
えっと「アイデンティティ・ポリティクスと社会運動」でしたが、その前に野間さんの例のブログ『「艦これ」で炎上 - Forces of Oppression』『なぜロリコンはセクシャル・マイノリティではないか? - Forces of Oppression』の内容があんまりだったので、急きょ予定変更、それについて書きます。
はい。では行きますね。全編と後編に分かれます。
①ロリコンとペドフィリアは違う
「ロリコンやペドフィリア」と並置すると「ロリコン」と「ペドフィリア」を混同しているようでここがまず気になります。
一般的に言うところの「ロリコン」は「BL」や「ショタ」のようなサブカルコンテンツのジャンル、カテゴリーです。だからロリコンが「要は趣味でしょ?」と言うのは、それはそれでいいです。しかし「ペドフィリア」はDSMやICDにも記載されている病理概念です。通俗的に「ロリコン」や「小児への性暴力、性犯罪」を「ペドフィリア」と称することがありますが、「ロリコン」と「ペドフィリア」はカテゴリーがまるで違います。
それは例えば「グリム童話」と「夜行性」というように単純に「カテゴリーや概念の違い」です。
→ペドフィリアはセクシュアル・マイノリティじゃない?
「セクシュアル・マイノリティ」と定義出来る人たちは、自分のセクシュアル・アイデンティティが社会の規範や制度と衝突する人たちのことです。そのために、ハラスメントにあう、就職出来ない、誰もが使えるはずの施設が使えない、品物を自由に買えない、結婚出来ない、福利厚生がない、保険に入れない、家が買えない、戸籍がない、本名が名乗れない、などなど。ただ衝突するだけでなく、差別されたり、不平等な扱いを受けたり、不利益を被るわけです。
「セクシュアル・マイノリティ」は決して「性的に珍しい人」なわけではなく、性別を巡る規範や制度について具体的な悩みや問題を抱えている人たちです。「ペドフィリア」がセクマイかどうか?というより、「LGBT」や「セクシュアル・マイノリティ」という枠組みで「ペドフィリア」を扱うことが適切で可能かどうか?といったことを考えた方が生産的でしょう。
②「セクシュアル・マイノリティ」を語るときに「キチガイ」は大NG!
- 同性愛、トランスジェンダー、ペドフィリアを含めて、マイノリティが精神病、精神障害カテゴリーに定義されてきた、されている史実があること。
- 少なくない人たちがメンタルクリニックのユーザーか、あるいはメンタルヘルスが必要とされる人たちであること。
トランスジェンダーの病理概念として知られる「性同一性障害」は今でも精神病カテゴリーです。性別を変えるためにトランスジェンダーの一部の人たちはメンタルクリニックに通います。
厚労省が「精神障害者保健福祉手帳」の性別欄の記載を削除する方針を固めました。働きかけたのは性同一性障害の当事者たちです。当事者が福祉手帳を持つことが多いからです。しかし、手帳から性別欄がなくなることによる効果は性同一性障害だけでなく、「セクシュアル・マイノリティ」全般に及ぶことでしょう。
同性愛は病理概念ではなくなりました。しかし同性愛であることで社会的な抑圧を受け続ければ、同性愛者のメンタルヘルスは低下します。
ゲイ、バイ男性の特性不安、抑うつ、孤独感が有意に高く、セルフエスティーム(自尊感情、自己肯定感)が有意に低いという調査結果もあります。
NHKオンライン 自殺と向き合う 同性愛者の自殺について考える
「彼の調子が少しおかしいと思ったときに、もう少し声をかけてあげられたらよかったのに、どうして何もしなかったんだろう。」LGBTとメンタルヘルスについてリポートするキャシーさんのブログ
LGBTと福祉・医療 QWRC LGBTに必要な医療に詳しいQWRCのパンフレット、PDFです。メンタルヘルスに力を入れている。
セクシュアル・マイノリティを語るとき、精神病、精神障害などを揶揄したり、そのスティグマとなる表現の使用、当人に向けたものでなくても、それで誰かを攻撃すること、これらは「絶対に避ける」べきです。完全にNGです。あり得ません。
③「異性愛者だから多数派」とは限りません
なぜロリコンはセクシャル(ママ)・マイノリティではないか?
答え=異性愛者なので多数派です。
- ヘテロ・セクシュアルなアイデンティティを持つ人が性的少数者の中に存在すること。
- 性別に関わる問題を抱えていて、社会リソースを十分に利用出来ない場合、異性愛者だったとしてもその人は性的にはマイノリティ状態である可能性が高いこと。
- 「性的嗜好が小児に向くこと」がペドフィリア(小児性愛)。異性愛か、同性愛かはあまり関係ない(概念的には「性別」のベクトルではないので「嗜好」と表現される)。
おそらく「ロリコン趣味の男性は、ただのヘテロ(マジョリティ)の男性だろ?」と言いたいのだと思います。この発言の「趣旨」には大きな問題はありません。
しかし問題は、その「論拠」となる「異性愛者なので多数派」の部分です。「性的マジョリティとマイノリティの関係」についての理解の仕方としては間違っています。
セクシャル(ママ)・マイノリティ=非異性愛者(≒同性愛者)ではない
例えば、トランスジェンダーや、性別違和を持つ一部の人たちはヘテロ・セクシュアルだったりします。シスジェンダーのヘテロと、トランスのヘテロは「同じであって違う」とも言えます。しかし、同性愛ではないことは確かで、こうした人たちの行動原理はヘテロの人と「ほとんど同じ」か、むしろ極めてヘテロ・ノーマティブです。
LGBT概念が日本に導入されて良かったことのひとつは、判り易い意味での「LGBT」カテゴリーに入らない、入れ難い人たちの存在もまた社会的少数者として浮き彫りにしたことです。もちろん、世の中は異性愛主義が規範ですから、多くの場合、異性愛者がマジョリティです。しかし、マイノリティかマジョリティかは、特定の属性に規定されるべきではないでしょう。異性愛者だから~だ、同性愛者だから~だ、とすべきでないということです。
マイノリティか、マジョリティかは、その人が社会の中でどんな位置づけや境遇にあるか相対的に決まるものだと言えます。
様々な性別のあり方と社会との関わりを含めて「セクシュアル・マイノリティ」を捉えましょう。異性愛者だから~だ、同性愛者だから~だなどとする考え方は絶対にやめましょう。なぜならば、そのような考え方、価値観こそが「マイノリティ」を作り上げ、差別してきたからです。
④マイノリティは『天使(都合の良い存在)』ではない
母乳マニアもおしっこフェチも強姦魔も覗きも下着ドロも全部セクマイか?
「母乳マニア」も「おしっこフェチ」も「強姦魔」も「覗き」も「下着ドロ」も「セクシュアル・マイノリティ」のことではありません。でもセクマイ/LGBTのとある人物が母乳マニアであったり、おしっこフェチだったりすることはあるでしょう。「艦これユーザーのゲイ」もいれば「少年が好きな中年のゲイ」も「BLが好きなビアン」もいるわけです。
初めから『「オタク」の中にネット保守もいれば、左派もいるし、セクマイ/LGBTもいるし、在日コリアンもいるよ』と言えば済むのですが、「オタク(ロリコン)もセクマイ/LGBTの仲間だ」というオタクの人がいたのですね。でも「セクマイ/LGBTの中にロリコンやオタク趣味の人もいる」のだから、そのような主張はセクマイ/LGBTを語る上でまるで必要ないのです。「自分はオタクでセクマイ/LGBTだよ」と言えば問題ないことです。
野間さんの論旨からは次のような問題を汲み取れます。
例えば、テレビの「障害者」が常に「良い人」であり、不屈の精神で何事にも挑み、不可能を可能する『キラキラした存在』として描かれるというようなことです。
それで人々が障害者に理解を示し、手を差し伸べるということはあるでしょう。しかし、なぜ障害者は「天使」でないといけないのでしょう。
「マイノリティ」が救われるべき対象として常に都合の良い、相応しく最適な存在かというと、決してそうではないということです。
自分にとって都合の良いマイノリティ、救うに値する存在は綺麗でカッコイイけど、自分にとって都合の悪いマイノリティたち、これらは救うに値しない存在で、キモくて、キチガイだ、というのは「マイノリティ運動」でも「反差別」でも何でもありません。
「在特会」にも、「行動する保守」にも、「キモオタ」にも、「反日の在日コリアン」にも「セクシュアル・マイノリティ」が存在します。
その人たちは人として問題を抱えており、また大変に気持ちの悪い、ダサい存在かもしれません。また社会の脅威になり得るような背徳的で危険な存在かもしれないのです。しかし、そのように様々な問題を抱える人たちを含めて「マイノリティの問題」です。
⑤「差別」の説明が「差別的」
ヲタ用語で言うところの「属性」って、性的マイノリティやエスニック・マイノリティや宗教的マイノリティ、肌の色といった「属性」と全然意味違いますから
「オタク差別」とか、そういうのは差別の定義からして成り立たない
「オタク」は文化的なカテゴリー=「趣味」で、対して「セクシュアル・マイノリティ」や「エスニック・マイノリティ」「宗教的マイノリティ」など「マイノリティ・グループと権利の問題」における「マイノリティの属性」は「生得的」「先天的なもの」だということです。
しかし、後天的であれ、先天的であれ、あるカテゴリーへの扱いや評価が属性で決定されたら、それは「差別」です。
それに、あくまで個人的に「オタクはキモいから嫌いだ」と言うことと、ある人々を特徴化して「差別をしても良いグループ」と見做すことはやってることが違います。
「ある特定の人たちへの攻撃や排除は許される」とすること。それが「差別」だし、昨今言われるところの「レイシズム」もそうです。ただ「差別」にしても「反差別」にしても、その理由に「先天的なもの」「生まれつき」「出自」「生物学」を用いると非常に説得力を持つということなのです。
しかし、これではかつて「人種」という概念における人の優劣の差異が、生物学的に正当化されていったこととほとんど同じだと言えます。
今日言う「レイシズム」とは「人種」のみならず、ある人々の持つ属性が、より価値があるとされる人々によって「劣等」とカテゴライズされることだと言っていいでしょう。
そして、それに基づく不当な扱いが運動においても、また私たちの日常的な生活のあらゆる場面においても「当たり前」とされることです。
同性愛における「性指向性」、トランスジェンダーの「性自認」。これらも本人の「自由意思」で決定出来ない「生まれつきの属性」と説明されることがあります。でも、それは「生まれつき」の人がそうでない人よりも優れている(また劣っている)ということではないし、そうであってはいけないでしょう。
同性愛者やトランスジェンダーの中には、人としての成長の過程における「生き方の発展形」として、あるいは過酷な環境に対する「生存戦略」として、同性愛者であることや、トランスジェンダーであることを自ら選び取った人たちもいます。「差別」や、「属性」の問題を、生得的/習得的、先天的/後天的、生物学的/文化的などという狭い対立軸の中で捉えるのではなく、もっと広い視野で考えたいものです。
→後編に続きます。