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「LGBT」と「性同一性障害」~トランスジェンダーを語る時、多くの人に最低限知っておいて欲しいこと~政治家、活動家、研究者の人たちにも読んで欲しいよ!

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 ちょわちょわっす。

ひばりんです。ひばりちゃんです。

ちょっと前になりますが、小林ゆみ議員の「同性愛は個人的趣味」の発言を取り上げつつ、「LGBT」や「トランスジェンダー」「性同一性障害」についてお話します。

発言全文 buzzfeed

www.buzzfeed.com

動画

youtu.be

まとめ、反響

togetter.com

問題視された「性的指向性」と「性的嗜好」ですが、小林ゆみさんの発言の全文、動画、及びブログに目を通すと、根底にはLGBTのうち「LGB」と「T」が異なることを主張したかったようです。

レズ・ゲイ・バイは性的指向であるのに対し、トランスジェンダーは性的自認

本来、レズ・ゲイ・バイとトランスジェンダーは本質的に異なるため、区別されなければなりません。実際に私の友人のトランスジェンダーの方に話を聞くと、レズ・ゲイ・バイとひとまとめにされることには抵抗があるとのことでした。そのため、区はレズ・ゲイ・バイとトランスジェンダーは異なるものであると周知し、LGBT性的少数者という性的指向と性的自認をひとまとめにした表現を改めるべきだと考えます

 (※なお、フォーマルな場で「レズ」はNGワードです…)

まとめでも、「LGB」と「T」の存在が異なることについては一程度の人々の共感を寄せていることが判ります。

実は「LGB」と「T」が異なることは随分前からGID当事者が主張してきたことです。以下はgid.jp(「一般社団法人 gid.jp 日本性同一性障害と共に生きる人々の会」)の山本蘭さんのツイートです。

これは近々のポストですが、かなり前から山本さんの主張は変わっていません。

2012年です。

これは2010年です。
企業のLGBTへの取組みがニュースになる昨今ですが、山本さんはLGBTが現在のように人々に注目される以前からずっとこうした主張をされてきました。そして、どうでしょう。小林ゆみさんの発言はその趣旨を汲むと、実のところ山本さんのそれと「ほとんど変わらない」のです。「レズ(ビアン)・ゲイ・バイとひとまとめにされることには抵抗がある」と述べた小林ゆみさんの「友人のトランスジェンダー」の方も、おそらく山本さんと同様の立場ではないでしょうか。

いくつかの論点があげられますが、ここでは「性的指向性と嗜好の問題」はさて置き、「LGBTトランスジェンダー」そして「トランスジェンダー性同一性障害」の関係について触れたいと思います。

病気、障害の考え方

小林ゆみさんは発言で「トランスジェンダーは性的自認であり、医師の認定が必要である明らかな障害である」と述べています。
ここで言う「トランスジェンダー」とは「性同一性障害」のことでしょう。「性同一性障害」は「トランスジェンダーを病理学的に定義した概念」で「病名」「診断名」です。また、見て判ることですが、文字通り名称に「障害」が使われています。
トランスジェンダー」それ自体は「性別を変える人」一般に広く使われる概念で「病名」「病理概念」ではないので注意が必要です。なお少なくないトランスジェンダー当事者が「性同一性障害」という「病理概念」に抵抗感を持っています。近年では病理学的、学術的な体系から外して欲しいという「脱病理化」の動きもあります。
トランスジェンダーは病気ではない」というのはトランスジェンダーの人たちの代表的な主張です。しかし「トランスジェンダー」と「性同一性障害」の違い、関係は世間であまり周知されておらず、小林ゆみさんの例のように「トランスジェンダー」と「性同一性障害」が「ほぼ同義語」として使われることもよくあることです。なるべくなら、区別して使い分けるのが望ましいことですね。

しかし、ともかく、小林ゆみさんはここで「トランスジェンダー」と「性同一性障害」を「ほぼ同義語」として使っていることは判るわけですし、趣旨を汲む限り、根本的な論点は趣旨の方にあるわけですから、言葉の使い分けの問題はここでは「補完して読み進める」ことにします(その方が合理的ですから)。

性同一性障害(×トランスジェンダー)は性自認(×性的自認)の問題であり、医師の診断、治療(×認定)が必要である明らかな障害」とすると、どうでしょうか。ずいぶんすっきりしますし、一見問題がないようですが、しかしこれでは「性別を変える」という行為や、性別を変える人が生まれつき「病気」や「障害」のようですね。

そこで「性同一性障害」における「病気」「障害」の捉え方を説明します。
今回、最も大事な点ですので、読者の方はよく頭に入れて下さい。

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※画像小さいですが、クリックするとでかくなるはず…。

よくある「誤解」ですが、「性同一性障害」は「性同一性の障害」「性同一性の異常、病気」というわけではありません。

※「性同一性」=「性自認」ですね。この「性同一性」とは「性自認」のことだと考えて下さい。「概念」としては全く同じものです。「人格」や「アイデンティティ」の一種です。

性同一性障害」の人が持って生まれた「性同一性(性自認)」は「病気」でも「障害」でもありません。そういうユニークな「性同一性(性自認)」を持って生まれた、あるいは持つに至った、ということです。
性同一性障害」と診断されても、そのアイデンティティの源である「性同一性(性自認)」が直ちに「異常」だ、「障害」だ、というのでは決してないのです。
ただ、そのようなユニークな「性同一性(性自認)」を持っていると『社会生活を送る上で支障がある』ということです。
その「社会との接点」の部分で「支障がある状態」を「病気」、あるいは「障害」と捉えます。こうした考え方は専門家の間でも共有されています。学会やシンポジウムで当事者を「生まれながらの障害」「異常な性同一性の持ち主」などとプレゼンする専門家はいません。
表記において「性同一性」→「障害」と綴られるので誤解を受けやすいのですが、「性同一性」が「障害」であったり「異常である」という意味ではないので、注意しましょう。

「障害」や「病気」が「社会」によって構成され、生じているのだ、といった考え方は社会構築主義に基づくものです。疫病、傷病、障害への社会学的なアプローチですね。
「病気」の定義も所説様々あり、掘り下げるとそれだけでも大変難しい問題ですが、こうした考え方を採用することの利点は、当事者の苦悩を本人の問題にせず、社会問題化出来ること。支援への理解を疫学的な分類に留めないで、社会現象に即したもの、人道的な救済へと繋ぐこと。当事者のアイデンティティ、出自、人格を「異常なもの」「迷惑なもの」としてむやみに傷つけたり、貶めないこと。などです。つまり、支援、福祉には、当事者へのアカデミックな逆差別やパターナリズム、誤解や偏見、差別を招かないような在り方が求められているわけです。

そして、この考え方は、そのまま「同性愛」「両性愛」者にも当てはめることが出来ます。

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かつて「同性愛」は疫学的には「病的性欲」であり「精神病」だとされていました。1970年代初頭、アメリカの精神医学会は「同性愛」を「精神障害」として扱わないことを決議しましたが、以後も「性的指向障害」など「診断名」は存在し続けました。WHOのICD、アメリカ精神医学会のDSMから「同性愛」が削除され、「同性愛」が「治療の対象とならない」とされたのは1990年代前後です。しかし「治療の対象ではない」ということですが、これは「同性愛者への人道的支援が必要ない」ということではありません。
2006年の「モントリオール宣言」、2007年「ジョグジャカルタ原則」、2008年の「性的指向性自認に関する声明」では、特定の「性的指向性」「性自認」を持つ人々への人権保護と差別撤廃がうたわれています。

NHKオンライン | 虹色 - LGBT特設サイト | 記事

治療の対象ではないが、人権救済、人道支援の対象であるというのは、もともと「同性愛」が疫学的には「異常なもの」と分類され、「同性愛を治す(矯正する)」といったことが「治療」の名のもとで行われてきた事実があるからです。「治療」と言っても、実態は拷問であり、同性愛者のアイデンティティを否定し、弾圧し、人々のからその存在を引き離し、社会から排除、根絶しようとするものでした。
その「アイデンティティ」自体が「障害」や「病気」ではなく、そのようなアイデンティティを持った人が社会で生きて行こうとするときに支障がある、病気や健康を害するリスクが高まる、という考え方は元々はこのような「同性愛」が辿ってきた「歴史」により、人々に発想され、理解され、現在は世界的な人権宣言のコンセプトになるまでに発達し、広まりました。
「同性愛」が辿って来た歴史を振り返ると、小林ゆみさんの「トランスジェンダーは障害だけど、同性愛は個人的趣味」という意見は、かなり転倒、錯誤していると言えます。
日本の「性同一性障害」は、世界の流れとは平行した独自の発展を遂げたのですが、そこで言われる「診断」「治療」とは「性同一性障害」の人のアイデンティティである「性同一性」を「障害」や「異常な状態」とし、「矯正」したり、社会から排除しようとするものではありません。日本の「性同一性障害」は、当事者が性別を変えていく上で必要とされる支援を行う「福祉」が目的であり、「性同一性障害」とは、言うなれば、当事者への医学的、法学的な「サポート体制」のことです。

下記は「QWRC」と呼ばれるサポートセンターが発行する小冊子「LGBTと医療・福祉(改訂版)」です(PDF)。

http://qwrc.org/2016iryoufukushicmyk.pdf

非常に優れた小冊子ですが、ここでは各属性の固有の問題に触れつつも、まんべんなく医療と福祉のサポートの必要性が判り易く解説されています。

確かに同性愛者と、一部のトランスジェンダー(中でも戸籍上の性別変更や性適合手術を望む人たち)、もしくは性同一性障害の典型的な診断基準、エビデンスに合致する人は全く異なる存在で、それぞれ個別の対応が必要です。
しかし、当人たちの「アイデンティティ」を「異常なもの」「障害」とするのではなく、この者たちを「異常なもの」「障害」とする「社会」や、「人々の価値観、偏見、差別」がまず存在し、その「社会」や「人々の意識」を変えようとすること、当人たちの「アイデンティティ」を「尊重」し、「守る」という福祉人道支援の見地からは同じ「枠組」が共有出来る、ということです。
それで「LGBT」や「SOGI」といった包括的概念が要請されているのです。というか、そのような発想を用いなければ、「LGBT」や「SOGI(性的指向性自認)」という包括概念に意味はありません。

ここは「LGBT」や「SOGI」を理解する上ではとても重要な点なので、活動の場に関わる方、今後、この方面の支援や勉強を行いたいと考える方は忘れないようにして下さい。

トランス・セクシュアルの「思考モデル」

トランスジェンダー」というより、特にその中でも戸籍上の性別を変えようとする人たちや、性適合手術を望む人たちの中には(こうした人たちも様々な価値観を持っているので一概には言えませんが)、「LGB」と「T」は違う、という主張を度々行います。それどころか「自分はマイノリティではない」とまで言う人もいます。
こうした人たちはなぜ「LGBT」を嫌うのでしょうか。
例えば、下記の記事では当事者が「私たちは、性的マイノリティーではなく、普通の男女」と発言していますね。

「私たちは、性的マイノリティーではなく、普通の男女。社会に理解を広めたい」

gid.jp中国支部長、米田未那さん(59)=安佐北区 性同一性障害へ理解広げ /広島

こちらはgid.jpの山本さんです。

私たちは、性の多様性や多様な価値観を求めているのではなく、ただ「普通」に男としてあるいは女として生きたいだけ

どうですか。意見が似ているでしょう。似ていますね。
こちらは、小林ゆみさんの全文に登場する「友人のトランスジェンダー(文脈上は「性同一性障害」の「当事者」と考えた方が良さそうですが…。※同義語として使わない方が良いです)」さんです。

「自分はカムアウトはしたくないし、そもそも世間にここまで大きく、性について取り合げて欲しくない」

LGBT」や「セクシュアル・マイノリティ」ではなく、ごく一般的な「普通の男女として生きたい」という主張は、「トランス・セクシュアル」の典型的な「思考モデル」のひとつです。私も似たようなことを個人的にはTwitterで呟いたりしています。
当事者の間に「埋没」、あるいは「埋没志向」などという用語がありますが、これは性別を変えた人なのだけれども、それと判らないほどに一般の男女の生活に溶け込でしまった状態のこと、またそうした状態を望むことです。
性別を変える人たちの中でも一部の当事者は「埋没」状態を望みます。そこでは戸籍上の性別変更や各種整形手術、身なりや立ち振る舞いなど、その全てが「自然な男女」に見えるように統合されます。男性、女性として不自然に見えないように努力するわけです。それは一口に言って「大変な苦労」だと言わねばならないのですが、そのような「自然な男女」を目指すことがジェンダー論的に、あるいはフェミニズムの観点から、果たして良いことなのか、悪いことなのかはさて置き、ここで大事なことは「ともかくそう望む人たちがいる」ということです。かく言う私自身もそうして生きてきました。

ジェンダー論やフェミニズムの観点からこうした「自然な男女」を目指す当事者のバカバカしい奮闘ぶりが揶揄されたり、批判されたりすることがあります。ジェンダー論をかじった当事者にもいるのですが、ジェンダー論やフェミニズムをトランス行為や自分と価値観の異なるトランス当事者に向けるのは絶対に止めましょう。当人の苦しみを増大させるだけで何の救いにもなりませんし、そんなことでは何も変わりません

※「トランス・セクシュアル」…メディアでは「身体まで女性(男性)に変えている人」などと紹介されますが、「トランス・セクシュアル」は疫学的な分類から言うと「レガシーなGID性同一性障害)」で、日本では「性転換症」などの訳語が「トランス・セクシュアル」にあたると言われています。GID性同一性障害)の「旧バージョン」といったところです。ま、Windows XPWindows 8、10のような関係ですかね。1stガンダムとUCガンダムみたいなものです。

LGBT」とは違う、「自分はトランスジェンダー性的少数者、セクシュアル・マイノリティではない」「普通の男女でありたい」。
こうした主張に世代的な隔たりはありません。こうした考え方は若い人にも存在しますから、古い世代から継承されるものではなく、性別を変える人たちの中でも特定の人に生じる「思考モデル」や「アイデンティティ」のパターンです。しかし、なぜこうしたパターンが生じるのでしょうか。
トランスジェンダー性同一性障害の人が性別を変えようとする時、身に付けるもの、服装や小物、周囲から期待される性的な役割、振る舞いや言動、所作、そして見た目ですね、顔だちや身体つき、声など、これらはトランスの過程で一般の男女のそれと逆転したり、あるいはチグハグで統一されていなかったり、不自然なものとして現れます。
そして、そのほとんどが「目に見える」「聞こえる」「触れて判る」など人の「五感で知覚可能なもの」ばかりです。「氏名」や書類の性別欄の「性別」もそうですね。人から名前を呼ばれたり、何か書類上の手続を行う場合、はっきりとその場に露出してしまいます。
「性別を変える」と言いますが、その「性別」とは「誰もが見て判る性別のサイン」であったり、人々が無意識にも従う「性別の決まり」や「ルール」(規範)です。
トランスジェンダー性同一性障害の人が変えようとする「性別」は、このような「見えるもの」「知覚されるもの」で構成されています。

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トランスジェンダーと非トランスジェンダー(シスジェンダー

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※シスジェンダートランスジェンダーが「交替する」「交替可能なもの」とする考え方は著者独自のものなので注意して下さい。大抵のシスジェンダートランスジェンダーの関係の紹介は2者を対立的なものとして紹介しているはずです。しかし、実際には「性別違和」とか関係なく、成長の過程でトランスジェンダーになる人もいますし、まるでシスジェンダーのように振る舞うことが可能なトランスジェンダーもいます。両者は対関係にありますが、完全に分けて考えてもあまり生産性がないので、ここでは「交替可能」なものとして扱います。

「LGB」と「T」の存在が異なる、ということは、「シスジェンダートランスジェンダーが異なる」ということとほぼ同じことです。トランスジェンダーの人からみて、同性愛者も異性愛者も同じシスジェンダーです。同じシスジェンダー同士なのに一方の権利は認められて、一方は認められないのだとしたら、不公平ですね。従って「同性愛」のイシューはあくまで「同じ仲間なのに権利が認められない」という問題だと言うことが出来るでしょう。
トランスジェンダーの人の問題とは、トランスの過程で生じる問題の全てが「見て判る問題」から構成されていることだと言えますが、逆に「同性愛」の問題とは、同性愛の人たちが現に職場や身の回りに存在しているにも関わらず、その「存在」が「見えないために生じている問題」です。

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メディアで知られる「オネエ」「ホモ」は消費文化によってデフォルメされた姿であって、一般に同性愛者は一見して普通の男女と全く区別が付きません。同性愛者はその存在を自ら主張しない限り、社会には間違った姿として存在し続けることになりますし、権利も認められないのです。
「LGB」と「T」の関係とは「シスジェンダートランスジェンダー」の関係であり、またそれは「見えない障害」と「見える障害」の関係です。

一部のトランスジェンダーの人たちが言う「普通の男女」というのはつまり「シスジェンダー」のことですね。性別を変えようとする人が「自分はセクシュアル・マイノリティではなく普通の男女だ」と言っているのは、「自分はシスジェンダーと同じように暮らしたいのだ」「自分はトランスジェンダーではなくてシスジェンダーになりたいのだ」と言っているのだと考えてみましょう。
トランスジェンダーの人にとって自分がそれと判ってしまうことは生活上のリスクに直接繋がる問題ですが、同性愛者は「言わなければ判らない」わけで、そのままではただ暮らすことは出来ても、「異性愛者と同等の権利を主張する」などということは永遠に出来ません。同性愛者の人にとって「カムアウト」は自分の存在が無視されることで被る不利益を解消するためには、まず初めにしなければならないことです。
同性愛者の「カムアウト」の運動、また、面会権、相続権、各種社会保障における権利の要求は「同じシスジェンダーなのに同じでない」「私たちはここにいる!」「私たちも一緒に暮らしているのだ!」といった主張だと理解すると判り易いでしょう。

同性愛者の権利の要求を基軸にしたLGBTムーブメントは当事者の存在を世に知らしめ、可視化させようとする試みですから、これは「埋没」を望み「普通の人」、「自然な男女」として暮らしたい人にしてみれば「目的が違う」「望んでいることと違う」ということになります。
しかしです。同性愛者の問題とは異性愛、同性愛関わりなく、シスジェンダーの人々が自分たちの問題として共有し、乗り越えなければならない社会の問題です。同じ類の人なのに不公平があるというのですから、それはそうでしょう。
自分がシスジェンダーだと自覚するトランスジェンダーの人は、「シスジェンダーの人の責任」として「同性愛と異性愛」の「不平等」の問題について、様々なシスジェンダーの人々と共に、一緒に、それこそ「普通の男女と同じように」考えねばならない「責任」があるのではないでしょうか。

性別を変えたい人、普通の男女になりたい人は、それでなった後、どうして生きて行きたいでしょうか。どんな世の中だったら、みんなで一緒に暮らせるでしょうか。

「普通の男女」になったその先のこともよく考えてみましょう。

包括的概念の必要性

「LGB」と「T」、「トランスジェンダー」と「シスジェンダー」、「見える障害」と「見えない障害」など、幾つかの切り口を用いて解説しましたが、実際はそう単純な話ではありません。
ゲイ、レズビアンバイセクシュアルと言っても、様々な人たちがいて、中にはゲイ、ビアンであってもトランスジェンダーに非常によく似たアイデンティティを持っている人たちもいます。またトランスジェンダーの中には先述したように病理概念である「性同一性障害」に否定的な立場を取る人たち、「埋没」ではなく「自分らしい生き方」、トランスジェンダーとして可視化された生き方、「ありのままの生き方」を望む人たちもいます。
そしてトランスジェンダーの中にも「LGB」が存在します。「MtFビアン」「FtMゲイ」などと称される人たちです。「トランスジェンダーの同性愛」を一般的な意味での「同性愛」と同じものと捉えることには疑問の余地も残りますが、ともかく同性愛に類似する状態がトランスジェンダーにもある、ということです。これは「トランスジェンダーにも様々な性指向性がある」と考えるのが良いでしょう。
そして、なんと言っても無視できない存在が「Xジェンダー」と呼ばれる様々な性指向性、性自認の組合せ、バリエーションを持った人たちの存在です。
こうした人たちの悩みや、生きていく上で生じる問題の多くは、トランスジェンダーの悩みや問題と共通しています。
こうした多様なバリエーションを持つ人たちの行動原理は、「LGB」と「T」、「トランスジェンダー」と「シスジェンダー」、「見える障害」と「見えない障害」といった2項対立的な切り口を用いても容易に理解することは出来ません。その者たちの行動原理や思考パターンが理解出来なければ、何にその人たちが困っているのかも理解出来ないわけで、支援の計画も立ちませんね。
加えて、幼年期、思春期では「同性愛」なのか「性同一性障害」なのか、専門家でも判別が難しい例もあります。最近では十代からホルモンの投薬を始める若いMtFFtMは珍しくないのですが、幼年、少年期からGID性同一性障害)のエビデンスにばっちり合致して、本人のアイデンティティも全く揺らがないという例は「全体の一部」でしょう。
そうしてみると、確かに「LGB」と「T」は異なる存在であり、個別の対応が必要ですが、様々な性指向性や性自認を持つ人たちに対して包括的に福祉、支援を行うための「枠組」が全く必要ないかという、決してそうじゃないわけですね。

LGBT」については「頭文字である、ゲイ、ビアン、バイ、トランスジェンダー以外の人たちが抜けている」「他の少数者を排除している」といった批判が毎度のように繰り返されているわけですが、「LGBT」「SOGI」といった包括概念の必要性は、むしろマージナルな存在、人たちの支援のためにこそ必要だと言えます。
用語の表記は歴史的な由来に過ぎず、これらの包括概念に期待される社会的な役割は、特定の性的指向性性自認を持つ人たちへの福利厚生であり、人道支援です。「LGBT」と表記されているからといって、それ以外の人々を差別するものではないし、「SOGI」だからといって、セクシュアリティやエロティシズム、隣接領域にある消費文化、サブカルチャーに関わる全ての問題がそこで扱えるわけでは全くないわけです。そんなことは、今日判り切ったことです。
表記や分類に拘る議論は生産性がないので、もうそろそろ止めたいものです。

互いの立場を踏み越えて

小林ゆみさんの発言の趣旨は『「LGB」と「T」は異なる存在だ』というもので、これは少なくないGID性同一性障害)の当事者や、一部のトランスジェンダーの人たちが以前から言い続けてきたことでした。
しかしながら、こうした当事者の主張が区議会などの表の場に出て人々にインパクトを与えるなどといったことはなかったわけで、その点では「よく言ってくださった」と思います。
しかし、一方でその発言は反同性愛の強い動機と機運を誘発しています。
以下はプロパガンダ漫画家で有名な「はすみとしこ」さんのツイートです。

こちらは石川大我さんのツイートですが、すっかり怒っていますね。

※ちなみに「性別違和」を主張しないトランスジェンダーの人もいますので、「性別違和を持っている人」=「トランスジェンダー」というわけではありません。「性別違和」の概念は主に病態モデルである「GID性同一性障害)」によるものです。ですから「性別違和を持つ人」を攻撃するトランスジェンダーGIDを攻撃するトランスジェンダーです)もいるのですね。この点、「トランスジェンダー性同一性障害」については小林ゆみさんとよく似た誤解があるのですが…。

「LGB」と「T」は確かに異なる存在であるし、個別の対応が必要です。しかし、実際には明確に分けて考えることが出来ない性指向性と性自認の領域があることも確かですし、またある少数者の福祉・支援を行うことで、別の少数者の福祉・支援活動が否定されるとしたら、それはそもそも「人道的な支援」と呼べるのでしょうか。
小林ゆみさんは「注意すべきこと」として次のように発言されています。

マイノリティを助ける側の人々が、人助けをしようという気持ちが過剰に膨らみ、上から目線となり、マイノリティの方々に差別的な目線を送っている可能性があります。

しかし、小林ゆみさんの言う「マイノリティ」の人たちとは、互いに敵対するような活動を本当に望んでいるのでしょうか。
現在、性的少数者と称される人たちの中には、同性愛、異性愛両性愛トランスジェンダーに限らず、様々な性指向性、性自認を持った人たちが存在します。
この人たちは目的が異なったとしても、互いに助け合わなければならない問題に向き合っています。
趣旨がどうであったとしても、結果的に人々の連携や繋がりを分断し、対立する結果を招いたことは、政治家、活動家として恥ずべきことではないでしょうか。

「当事者」というのは様々なことを言います。小林ゆみさんの友人のトランスジェンダーもそうですし、山本蘭さんもそうですし、私もそうですし、「当事者」とはそういうものです。それは、様々な立場で様々な抑圧を受けているからこそなのですが、そうした様々な当事者の言葉の中で、一人の政治家として、何を行うことが最も必要であり、正しいことか見抜き、実践することはとても難しいことです。しかし、少数者が政治家である小林ゆみさんに期待しているのは、そうした「政治的な正義」でしょう。

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どうしたらいいか、一緒に考えましょう。
「LGB」の人たちも、「T」の人たちも、そこでは互いの立場を踏み越えて、みんなで一緒に考えましょう。

ちょっと長くなりましたが、ひばりんでした。
ではまた('ω')ノ

 ※文中の画像ですが、クリックしても小さいですよねw 下記のリンクに格納してあります。プレゼン等に使用される方はご一報下さい。

レインボーフラッ - hibari_to_sora's fotolife

※転載、取材、講演のご連絡は hibari.mizuno@gmail.com まで。