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人は「ホモ」「オカマ」に何を求めてきたか

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私たちは日ごろテレビで「女装した芸人」や「おネエ」言葉で話すタレントなど、いわゆる「ホモ」「オカマ」のキャラクターをよく見かける。お笑い芸人が「女装」で出て来ることなど、もはや当たり前であるし、いわゆる「おネエタレント」の存在・役割も大きい。「おネエタレント」と炎上した「保毛尾田保毛男」を同列で扱って良いかどうかは一余あるが、しかし、一般の人には大雑把に「似たもの」として映っているのではないだろうか。
「おネエ」のタレントと言えば、マツコ、ミッツ・マングローブはるな愛、クリス、山吹トオル、IKKO、KABAちゃん楽しんご假屋崎省吾美川憲一、おすぎとピーコ…思いつくだけでも錚々たる顔ぶれだ。古くから活躍している人たちもいる。美輪明宏は’50年代にスターとして知られるようになったし、カルーセル麻紀、ピーターは’60年代後期である。皆「国民の誰もが知っている」と言って良い有名人である。中には相当な発言力と人気・地位を築き上げている人もいる。

だから、「よく見かける」というのはほとんど適切ではない。なんなら保毛尾田に限らず、そもそも私たちはそれを見かけない日はないというぐらい「ホモ」「オカマ」、あるいは類似する、連想させるキャラクターを見かけている。その様子はもはや「慣れ親しんでいる」と言ってもいいほど定着しているのである。
どうしてここまでテレビで「ホモ」「オカマ」のキャラクターが定着しているのか、不思議に思ったことはないだろうか。

「ホモ」のパロディ、「カリカチュア」としての「保毛尾田保毛男

フジテレビは謝罪したが、「差別の意図はなかった」「局として大きな抗議を受けたという認識はない」こと、倫理部との協議を行わなかったことなど、謝罪後も批判が相次いだ。
一方でフジはニュースサイト「ホウドウキョク」で特設ページを置き、レインボーブライドにはライトアップで参加するなどLGBT啓発を行っているのだが、このギャップは、日常的に「ホモ」「オカマ」のキャラクターがテレビで常態化していることを考えると無理もないようにも思える。

’80年代初期にデビューした「とんねるず」だが、同年代中期には絶頂期を迎え、「~おかげです」は6年間バラエティ番組年間視聴率第一位の座を誇り続けた。そんな「とんねるず」は、世代によっては’80年代後期~’90年代前期のサブカルチャー、バルブ期のムードを一身に体現する芸人だ。その「笑い」の特質を「バブル」で象徴される同時代性を踏まえて一言で語るなら「パロディ性」「メタ性」であるだろう。そこでは芸人でありタレントである自分自身ですらも「パロディ」の対象になる。この特質だけに「楽屋落ち」ギャグも必然として創出されたものだと言える。
一方、日本のゲイ文化だが、一種のアングラでしかなったゲイカルチャーが大衆文化に浸透するのは、音楽・クラブシーンを舞台にした若者文化である’80年代のゲイディスコブームを経て、多くの人々の知るところになる’90年代初頭の「ゲイ・ブーム」だろう。
実は「とんねるず」の「~おかげです」の大部分は’90年代の前期でありこのゲイ・ブームに重なっている。
青髭、ピンクの頬、くぐもった話し方に背広を着ている保毛尾田保毛男のキャラクターは強烈なインパクトがあり、当時「ホモ」と言えば「保毛尾田保毛男」と無条件に連想されるほどイメージを広めたと批判された。しかし、ゲイカルチャーが大衆に浸透していたことや、彼らの「笑い」の特質が「パロディ」にあることを前提にすると、この時既に「ホモ」のカリカチュアは完成していたのではないかと思われる。問題となった放送でたけしは保毛尾田に向かって「小学校の時こういう親父が公園で待ってた」と言う。もちろんそれもギャグであり、実際に保毛尾田そのものな人がいたとは到底信じがたい。しかし、たけしの発言には保毛尾田の原型にあたる「ホモ」のイメージが伺える。
また、大柄な石橋演じる保毛尾田が「いかつい」のに比べると、「木梨ノリ子」は「小柄」で対照的だ。保毛尾田は男装だが、ノリ子は度々「女装」で現れる。「とんねるず」における「ホモ」「オカマ」のイメージが強弱、大小、あるいは男女のイメージで揃って登場するのは何か暗示的でもある。劇中では「ホモ」と「オカマ」の語意を微妙に使い分ける場面さえあるのだ。
「マッチョなゲイ」「パワフルなゲイ」「権力的なゲイ」「男っぽいゲイ」のイメージは、ゲイが「男らしくない」「脆弱である」「被差別者である」「女っぽい」とのイメージのアンチテーゼでもあり、北米のゲイリブ運動とも関わりが深い。例えば一部のアメリカン・ヒーローはゲイ・アイコンとしても描かれて来たわけだが、保毛尾田のスピンオフである「HOMO MAN」は他ならぬ「バットマン」のパロディである。ゲイカップルとして描かれるマッチョなバットマンと、やせっぽっちのロビンの姿は誰もが見たことがあるだろう。劇中で「HOMO MAN」は保毛尾田が扮しているのであり、パロディにさらにパロディが重ねられたまさに「とんねるず」らしいキャラクターである。

保毛尾田保毛男」について松岡宗嗣は次のように語っている。

松岡宗嗣 @ssimtok

www.huffingtonpost.jp

年上のゲイの知人は、自身のセクシュアリティに悩んでいたとき、最初に見た同性愛のキャラクターが保毛尾田保毛男で絶望したと言っていた。

当時は今よりももっと声をあげにくかったのだろうと想像する。保毛尾田保毛男がテレビの中で同性愛者をネタにして、面白おかしく振る舞い、周りもそれを見て笑う。テレビを見ていた人たちは、次の日、学校などで保毛尾田保毛男のマネをして「ホモ」「きもい」と笑っていたのではないだろうか。

 当時このキャラクターに苦しんだ人がいること、またその復活で現に今を生きる人々の中に深く傷ついた人がいることは忘れてはならない。その点に留意しつつあえて述べるが、保毛尾田は、それまでの日本の土着文化と北米のゲイムーブメントの融合、そして当時の人々の同時代性が産んだ幻想的なキャラクターだと言える。正直に言うと、個人的にはゲイカルチャーの文脈から見て「保毛尾田保毛男」は興味深いキャラクターではないかとさえ思っている。

ずっと続いてきた「保毛尾田保毛男

wezz-y.com

人気絶頂だったにも拘わらずオカマキャラを封印したとして注目された藤井隆だが、詳細は参照先を読まれるとして、藤井がオカマキャラでブレイクするのは’90年代も後期から’00年代付近で、「マシュー南」で司会を務めた「BEST HIT TV」シリーズは’01年に放送がスタートしている。藤井のブレイクの直前、何があったかというとかの「府中青年の家事件」だ。「府中」の事件は「とんねるず」の「~おかげです」にほとんどカブっている。そしてOCCURが最高裁で勝訴する’97年に藤井隆は「超!よしもと新喜劇」でオカマキャラを演じ、大好評を博し全国区へと昇り詰める。絶頂を迎える「マシュー南」の時、何があったかというと「週刊金曜日」<伝説のオカマ 愛欲と反逆に燃えたぎる>の「オカマ論争」だ。
同性愛史において有名な二つの出来事だが、こんなことが起こっているにも関わらず、バラエティショーでは「ホモ」「オカマ」キャラが入れ替わり、立ち代わり登場しては大ブレイクを引き起こし、人々はお茶の間でそれを爆笑していたということである。
先述したが、「~おかげです」は’90年代前期のゲイ・ブームともカブっている。この頃は、お笑いから、テレビドラマ、映画、小説、音楽、アート、コミック、はては世間を賑わせる裁判沙汰と、ありとあらゆる分野で「ゲイ」「ホモ」「オカマ」コンテンツが目白押しで、まさに「ルネッサンス」の名が相応しい「ゲイのワンダーランド」と化した時代である。「保毛尾田保毛男」だけにフォーカスするとインパクトと違和感しかないが、ゲイ・ブームの見取り図に置いた保毛尾田は数あるゲイコンテンツのひとつに過ぎず、むしろ「目立たない」存在ですらある。保毛尾田が「ゲイコンテンツ」であるかないかはここではあまり大きな問題ではない。それが今見ていかに奇抜であり、差別的であったとしても、当時のゲイコンテンツの質・量、拡大域、それらが人々に与えたものを想像した時、保毛尾田の存在は些少にも見える。
もちろん当時、子どもだとしたら、他のカルチャー・コンテンツに自力でコミットする能力はなく、ましてや地方なら、おそらく学校では笑われ、家に帰るとお茶の間に保毛尾田がいる日常の反復となったはずだ。それは地獄であり、孤独だったことだろう。

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ところで「LGBTをお笑いにするのは"時期尚早"」といった発言があった。
初め私は事情をあまり知らないLGBT外部の関係者の発言だと思ったが、それが松岡を初め比較的若い世代のLGBT当事者が述べたものだと知っていささか驚いたのだった。

www.huffingtonpost.jp

松岡さんは、LGBTをお笑いの中で扱うことについて「誰もが知り合いにゲイがいて、悪いゲイもいれば良いゲイもいる、面白いゲイがいれば面白くないゲイもいるというという状態であれば、"自分の周りのゲイはこんなんじゃない"、と笑えるのかもしれない。でも、そうでない時代にああいうキャラクターが出てきてしまうと、ゲイというのはそういう存在なんだ、笑っていい存在なんだと植え付けられてしまうのではないか」と指摘、日本ではまだ時期尚早なのではないかとの見方を示した。

「時期尚早」。それまで全くなかったところに突如現れて扱いきれずに頓挫したならば、それは「時期尚早」と言っても差し支えない。しかし、この国では現に’50年代から「ホモ」「オカマ」「同性愛」を連想させる、今で言ういわゆる「おネエ」のスターが芸能界、アングラに君臨し、ある時期からは「ホモ」「オカマ」キャラのお笑い芸人は庶民のお茶の間で「当たり前」の存在だったのである。「時期尚早」? あまりに違和感があり過ぎる。
また松岡は『当時は今よりももっと声をあげにくかったのだろうと想像する』と述べている。そう感じた若者は松岡だけではないだろう。しかし、OCCUR(※府中)や「すこたん企画」(※金曜日)の人たちのように「声をあげた人」もいる。学校で皆に笑われて下を向いていた少年もいたが、同時に声を上げた青年たちもいたのである。想像して欲しい。全日本国民が「ホモ」「オカマ」を大笑いし、あるいはゲイカルチャーをヘテロの若い男女が狂喜する中で「人権ガー!」などと場合によっては当事者からさえも煙たがられることをした人たちがいたというのである。例によって「すこたん企画」は伏見憲明らを初め少なくない当事者から批判された。OCCURはゲイ・ブーム真っ只中のゲイ・リブ運動である。ブームをけん引する関係者にしてみれば好ましい存在ではなかったかもしれない。笑われて黙って下を向くしかないのも孤独だが、場合によっては当事者からすらも倦厭されることをいとわず声を上げるのもきっと孤独だったろう。
だから保毛尾田は「復活」したのでもないし「遺産」でもない。また当時は「今よりも」もっと声をあげにくかったのでもない。こう言わねばならない。ずっと続いていたのだと。黙ってるしかなかった人も、声を上げた人も、「ホモ」も「オカマ」も、そして「保毛尾田保毛男」も。今までなかったのではない。それはずっとずっと、「ずっと続いていた」のである。

しかし、ここまで考えて、すぐ私が間違っているのだと気付いた。彼らは「LGBT」と言ってるのである。
LGBTの概念を早く知り、導入を用意したと言える人たち・運動は何十年も前に認められる。しかし、実際にLGBTが大衆に知れるブームと言ってよい状態はここ数年、ほんの最近のことである。そこで言う「LGBT」というのは今まで連綿と息づいてきた「ホモ」「オカマ」文化、場合によっては日本の土着文化と融合したゲイカルチャーですらないのではないか。
松岡は次のように語っている。「誰もが知り合いにゲイがいて、悪いゲイもいれば良いゲイもいる、面白いゲイがいれば面白くないゲイもいるというという状態であれば、"自分の周りのゲイはこんなんじゃない"、と笑える」。ここでいう「ゲイ」とは、もはや私たちが知る「ゲイ」とは全くの「別物」なのではないか…。
若い世代にとっては「保毛尾田保毛男」は大衆的な「ホモ」「オカマ」のキャラクターではないし、ゲイ・ブームに網羅されたゲイコンテンツの一例でもないし、社会学的なカリカチュアでもない。彼らにしてみれば、それは「LGBTを揶揄するキャラクターでしかない」のである。
日本において「ホモ」「オカマ」「同性愛」、あるいはちょっと「性的に変な人」つまり「変態」の歴史を辿れば、戦後はおろか戦前、江戸時代、もっと古く神話の時代まで遡ることが可能だ。それに比べたらたかが数年のLGBTの歴史などないに等しい。しかし、今の世代はまず先に「LGBT」と出会う。国際的な福祉・人権プロジェクトであるLGBTにおける「ホモ」「オカマ」「変態」は「文化」ではない。それは「被差別者」であり、「NGワード」「差別語」である。
いくらそれが大衆に親しまれた「ホモ」「オカマ」のキャラクターだと言っても、彼らにしてみれば、そんなこと「知ったこっちゃない」のであるし、そう言うべきだろうし、そのような反応が当然と思われる。ここで彼らに日本には古くから「ホモ」「オカマ」の文化があってね…「ゲイ」もいてね…と言うことに一体どれほどの意味があるというのだろうか。

LGBT」は彼らにしてみれば続いて来たのではない。今、まさに始める、始まる、始まっているのだし、だからこそ「保毛尾田保毛男」は「復活」だし、「負の遺産」であるし、「LGBTをネタにするキャラクター」であり、「時期尚早」なのである。
私たちは想像しなければならない。彼らの目には、「おネエ」タレントを初め、日常化したテレビの「ホモ」「オカマ」キャラクターがどう見えているのだろうかと。

人は「ホモ」「オカマ」に何を求めてきたか

週刊金曜日の「オカマ論争」でゲイ雑誌バディが行ったアンケートによると「メディアが『オカマ』を使うのは許せる?」かという質問に、55.5%が「使われ方によってはOK」、30.4%が「当事者が好んで使う場合に限りOK」、11.1%が「使っちゃダメ!」、わずかだが3%が「どんどん使う」と答えている。
一方、大学の非常勤講師として学生に接する「すこたんソーシャルサービス」の主宰者は、少し女性的に見えるヘテロの男子学生に「オカマと言われて凄く辛い経験をした」者が「年間200人中4~5人はいる」と述べている。

初めの問いに戻りたいが、なぜ、ここまでテレビで「ホモ」「オカマ」のキャラクターが定着しているのか、不思議に思ったことはないだろうか。今回、保毛尾田は『「笑っていい存在」「気持ち悪い存在」なのだ、という認識を強烈に植えつけた負の側面』と強く批判された。
しかし、「おネエ」を含め「ホモ」「オカマ」キャラはある時期からお茶の間で「当たり前」の存在である。「当たり前」というより、バラエティ番組においては「なくてはならない存在」もはや「花形」と言っていい地位を築き上げている。
私には「ホモ」「オカマ」のキャラクターが「ただ笑われる存在」「気持ち悪い存在」としてだけ人々に求められてきたかというと、疑問に思う。果たして、人々は「ホモ」「オカマ」という存在に何を求めて来たのだろうか。

例えば「おネエ」に求められる特技・スキルとして「お笑い」の他に「毒舌」がある。普通の人が言えば、ただの「悪口」「誹謗中傷」、著名人・文化人がすれば「本音主義」と批判されそうな内容も「おネエ」が言うと人はそれを笑いながら最後まで聞けるのである。これはただの「毒舌」ではない。トークが上手い、権威がある、というだけでこうはならないはずだ。「おネエ」に与えられた不思議な特技である。
これは簡単に言うと「普通の人がやったらNGだけど、おネエだから許す」というような状態だ。そして「おネエ」がこれほどまでに普及していることを考えると、日本中の人がほぼ一定レベルでその暗黙の了解に同意しているのである。
「おネエ」に与えられたこの能力は、「おネエ」が男女の枠組みを逸脱する存在であること、同時にその容姿がジェンダー的には極めてデフォルメされた姿であること(ジェンダーの典型的でないこと)、故に「笑われる」道化師のような存在として常に人々の前に立ち現れていることと無関係ではないと思われる。
今回、主に芸能人・お笑いタレントから保毛尾田を擁護する声も相次いだ。内容はともかく、くみ取れるものがあるとしたら、クレームで制作現場が萎縮し、活動が自由に出来なくなることへの危機感だろう。特に「おネエ」タレントは自分たちの表現領域の問題であるだけに他人事ではない。

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ここに書かれていることは一言で「支離滅裂」というものである。しかし、それだけに保毛尾田の炎上が「おネエ」、いや「ホモ」「オカマ」の生存戦略を巡る切実な「死活問題」であることは明白だ。
また「おネエ」には人に許されないある特殊な能力が付与されているが、その能力とはおよそ無関係に見える事例も起こるようになった。例えばマツコの「インスタ女子はブス」発言の炎上である。ここでは「インスタ映え」するために「食べ物を粗末にする女子」という本当にいるのか、いるとしてもどれだけいるのか判らない、まるでバッシングのために用意されたかのような「女子」が存在している。賛否分かれたが、共感者には「ブス」を単に女性への侮蔑としてベタに受け取ったものも見受けられた。対して批判はカジュアル化する侮蔑表現としての「ブス」への懸念である。これは、ごく一般的な過激な発言への炎上と何ら変わりなく、魔法がかかった「おネエの毒舌」に人々がインスパイアされた状態とは程遠いように感じられるのだが、どうだろう。
LGBTポリティカル・コレクトネスは、大衆が受け継いできた「ホモ」「オカマ」文化、その歴史を切断する。ここで「いや、文化だから」とか「面白いから」とか言っても、もうアジェンダとしての設定はレイヤーが違うのだ。「ホモ」「オカマ」文化は現在、危機に瀕している。
炎上の中であろうことか保毛尾田を「自分は見て笑っていた」と述べる当事者が少なからずいた。どちらかというと、私もその一人だ。白状すると、私は「ホモ」「オカマ」が禁句になる社会は少し寂しい。

「ホモ」「オカマ」は、昭和、いやそれよりはるか以前から笑われることと引き換えにある時は路地裏の暗がりで、またある時は照明がまたたく舞台の上から大衆に寄り添い、ある時は人に夢を与え、またある時は忌むべき対象となって生きて来た。だが、その歴史が変わろうとしているのだと思う。

 

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※「おネエ」はしばしばLGBT当事者であるが、「おネエ・タレント」という存在はLGBTではない。保毛尾田保毛男が大衆から見て馴染み深い「ホモ」「オカマ」キャラクターではあっても、LGBT当事者から見ると「LGBTを揶揄するキャラクター」でしかないように。LGBTから見て「おネエ・タレント」は<他者>なのだ。

※文中、敬称を省略しています。