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LGBT セクシュアリティ ジェンダー系の話題

闘うトランスジェンダー「小川みき」にとって「女子」とは何か? #女子的生活

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「女性的生活」は坂木司によるトランスジェンダーの日常を描いたライトノベル文芸作品だ。NHK総合「ドラマ10」枠、主演・志尊淳によりテレビドラマ化され、先月4話に渡るエピソードの放映が終了した。
テレビドラマ「女子的生活」の視聴率は消して高くはないと言える。下記は過去のNHK総合「ドラマ10」枠の視聴率だ。LGBT、もしくは関連するキャラクターが登場する他局ドラマの視聴率も参考になるだろう。

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しかし、何かと当事者から反発・顰蹙をかいやすい「トランスジェンダー」をモチーフとしたドラマとしては成功したケースではないかと思われる。視聴率は振るわなかったが、ハッシュタグ「#女子的生活」には様々な意見が寄せられた。日本において「トランスジェンダー」や「性同一性障害」を扱うドラマの難しさは、国内で「トランスジェンダー」が「病理化」されていること、従って制度上、優遇される者と、そうでない者が存在してしまうこと、特例法制定から15年経とうとしている今もなお「性同一性障害」を扱ったステレオタイプなドキュメンタリーがメディアでは延々と繰り返され、オペと整形で話題作りを行うタレント・芸人が必ずいつもいて、性別判定の価値ヒエラルキーを無反省、無自覚に強化し続けていることなど、日本のトランスジェンダーを取り巻く状況と無関係ではない。
本ドラマが当事者の間で好意的に受け止められたことは注目に値する。いくつかの原因が考えられるが、大きなポイントは「オペを受けていない(プレオペ)半端者、宙ぶらりん(原作による引用)な身体の状態を前向きに受止めつつも、<女子>として働き、生きるトランスジェンダー」といった、ドラマがプリントアウトした「明るいトランスジェンダーの姿」によるものだ。「トランスジェンダー」「性同一性障害」と言えば、オペに纏わる悲劇や苦痛、性別とアイデンティティ、差別と偏見に悩む「自分探し」のドラマがお決まりのパターンだが、このようなステレオタイプな物語とは、本ドラマは一線を画していた。

今年は四月から国内での性適合手術に保険が適用されるというトランスジェンダーにとってエポックな年だが、同時にオペを前提とした制度、性別判定基準に対して、トランスジェンダーたちへのプレッシャー、バイアスはより高まった。「非常に高くなった」と言っても過言ではない。国内オペ保険適用に焦燥が入り混じった複雑な心境を漏らすトランスジェンダーも少なくない。
そんな中で、プレオペでありつつも生きることにファイトを見せるトランスジェンダー「小川みき」が当事者にどう映ったか、それは想像に難くないというものである。
ニューフェイスとして期待される志尊淳のネームバリューもさることながら、「宙ぶらりん(原作による引用)」なセクシュアリティで、パスして、時々リードされるといった、おそらく「再現するのに難しいトランスジェンダー」の役どころには、彼の俳優としてのスキルも大きく貢献していただろう。今後もドラマでLGBTキャラクターを控える志尊淳だが、名実ともにLGBTアイコンの地位を不動のものとする作品となった。
また若いMtFたちにとってカリスマ、インフルエンサーである「西原さつき」の起用も一躍かっていた。彼女の起用により、若いMtFたちにとってテレビドラマはより受け止め易いものになったはずだ。

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女子的生活 | NHK ドラマ10

女装・男の娘ブームを引き起こしたクラブイベント「プロパガンダ」時代は西原自身が「ニューウェーブ」的存在だったわけだが、わずか数年で「パイオニア」と呼ばれ、すっかり「先輩」となってしまった。囲んでいるのは若手MtFのユーチューバーたち。若いMtFたちにも「小川みき」のキャラクターは好意的に受け止められたようだ。

さて、概ね好評だったと言えるテレビドラマ「女子的生活」だが、本稿ではドラマ・原作を通じメインテーマであったとも言える「女子的」なるもの、その「女子」とは何かを考えてみたい。
ドラマ「女子的生活」は国内性適合手術の保険適用が進み、トランスジェンダーへのプレッシャーが高まる中、まさにタイムリーに求められるトランスジェンダーを描いた点では評価出来る。しかし、原作が目指し成し得ようとした「女子」を描く点でどうだったろうか。

※これから先、長いので、むつかしー話が嫌な人はとりあえずここから飛ばして、最後の書籍紹介でも読んでくださいw ひばりちゃんより。

男子には可視化されない女子バトル

小説は大きく分けて4部構成(※特に章分けの表記はないが、区切りと共に明らかなこと、便宜性もかねてここでは1~4章を設ける)。最後の4章は複数の舞台が用意されている。

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「みき」は専門学校を出た後、東京の下町に住み、会社の帰りにコロッケを買うような生活をしている。職場は廉価品を生産、販売するアパレル系メーカーだが、人の出入りが激しく、中国に工場を持ち、ネットから他人のデザインを盗用してしまうようなブラック企業だ。物語は「みき」が元カノでありトランスジェンダーの「ともちゃん(MtF)」と別れ、同郷の友人(同級生)だった「後藤」が住居に転がり込んで来るところから始まる。「後藤」は闇金にハマった元カノに騙され、身包み剥がれて破産した状態であり、「男性」としては一種の「負け組」だ。
それぞれのチャプターで「みき」と対峙するキャラクターが設定されている。見所は各所で繰り広げられる「みき」と登場人物たちの言葉巧みな話術と心理的な駆け引きだろう。主人公による一人称視点であるため、当然だが「みき」が遭遇しない場面、他人の心理は直接描かれない。読み手は「みき」の語りと「会話」を通じてしか「登場人物」たちの心理を推定出来ないが、逆に「みき」の心象を通じて会話の心理戦に強制没入させられる。手法の性格上「心理模写」に重点が置かれ、一人称、モノローグの小説によくあることかもしれないが、全編が全て細かい回想シーンの集合だと言えば、そう言えなくもない構造だ。
会話の様子はさながら「バトル」と言うに相応しい。特に女子同士でマウントを取り合う「合コン」の場面は1章と4章の2度描かれるが、「バトル感」が非常によく出ている。またこうした女子同士の何気ない会話による熾烈なバトルが「男性には全く可視化されない」という点にも触れられている。
次は1章の合コンで「みき」がお目当ての「ゆい」を落とすまでの一部分だ。テレビドラマでは一瞬の出来事に描かれているが、原作では「みき」が「ゆい」を落とすまでには相当な会話に分量が割かれている。ここでは「みき」の意地悪な挑発に「ゆい」が激しく抵抗しているが、これら会話の全てが男子からは「女子トーク」にしか見えない。

「(中略)動物を殺して皮膚を剥がすなんて、考えただけで怖いもん」
少し、沈黙。彼女は下を向いてしまった。やりすぎた?
あ、違った。演技の「間」だった。
「━判るよ。(中略)命を奪ったら、最後まで使い切ってあげないと、私はそう思うんだ」
わあ、完璧。ならもっとすごいの、投げちゃおうかな。
「えー、でも私だったらやだなあ。死んだ後、自分の皮膚が居酒屋のトイレの床にこすりつけられるとか、あり得ないもん」
小さめの声で、表情はあくまでもフレンドリー。正面に座った男からは、きっと女子トークをしているようにしか見えないだろう。
さあ、どう出る?
(中略)
「あんたの皮なんか、牛以下だよ」
きたきたきた。私は、「信じられなーい」という表情を作って、固まってみせた。
すると、重めの球が投げ込まれる。
「━このゆとりビッチ」
キャッチ。いいじゃん。最高!

故に「バトル」と言っても、一般的な意味での「喧嘩」「口論」というより(そういう場面もあるが)、日常的にはどこにでも転がっている、職場の給湯室やトイレ、LINEで行われるような、仮に男子が横に座っていても、会話のグループにいても、全く気付かれないような、そんな「女子にしか判らないバトル」だ。「男子に見えないバトル」なのである。それはある時は、女子同士にしか判らないギスギス感であり、ある時は女子同士のシンパシーとほど良い緊張感であり、またある時は女子として生きることの「息苦しさ」をよく伝えるものになっている。
物語の大詰めを迎える4章、タワーマンションでの合コンは高学歴、高収入の男子をハイスペック女子が「手作り料理」で奪い合うバトルロワイヤルめいた決戦だ。ここでは何気ない会話を装いながらも、「手料理が上手いか、下手か」でマウントを取り合う熾烈な競争が描かれる。

「━なんで私が考えたって思ったんですか?」
言った瞬間、まずい、と思った。けど、後の祭り。
「だってかおりちゃん、お料理下手でしょ」
小声のふりした、そこそこ通る声。男たちの耳に、ちょうど届くぐらいの。
(かおり、ごめん!)
ジャストパス、敵に出しちゃった。
「そんなことないですよ。かおり、会社にもお弁当もってきてますし」
慌ててフォローに回ると、ケイコはくすりと笑う。
「そう。じゃあ、『お料理』が好きなのね」
うわあ、うまい。「好き」と「下手」を、見事に両立させてる。手練感、ハンパないわ。
「かおりちゃんでも作れる、簡単で気が利いたものを、あなたが教えたんじゃない?」

「ケイコ」は「みき」たちにとってワンランク上の強敵ハイスペック女子として登場するわけだが、その「ケイコ」が持ち寄った『手作りローストビーフ』に「みき」たちは『追いマヨポテトサラダのハム巻き』で勝負を挑み、見事に「ケイコ」を退ける。
4章冒頭では後藤の好物から既成事実として、男子がランチパック、ナポリタン、ハムマヨ、ポテサラ、目玉焼きハンバーグ、ハムエッグ、焼きそばパン、などといった庶民的でかつ保守的とも言える食べ物に惹かれるものだという伏線が周到に張られている。「惹かれる」というより、それは「男らしさ」にも通じる一種のイデオロギーであり、例えばほぼ同じ原料であるにも関わらず一部の男子から好まれる「マヨネーズと卵」「豆腐に醤油とみそ汁」の組み合わせの普遍性に代表されている。
そして『追いマヨポテトサラダのハム巻き』で「ケイコ」に勝利する「みき」たちも、「マナミ」の『手作りおにぎり』と『鳥の唐揚げ』といったあくまでも家庭的でかつシンプルな手料理を前に呆気なく沈むのである。「マナミ」は高学歴、高所得の男たちの幼馴染であり、彼らの母親的な存在であった。

本物と偽物

4章では女性に求められるロールプレイと、男性が求める「食べ物」がジェンダーに規定されている様がバトルを通じて実によく描かれている。
『手作りローストビーフ』が「本物の手料理」なら、「みき」たちの『追いマヨポテトサラダのハム巻き』は「偽物」「ジャンクフード」であり、母的存在である「マナミ」の『手作りおにぎり』は男たちにとって次元を超えた「至高の一品」である。
そして、この「本物」と「偽物」の対応関係は、「女性としては偽物」だが、「趣味女装」に対し「トランスジェンダーとしては本物だ」という「みき」自身の存在にもかかっている。

「え。え。なに?ていうか、ホンモノ?それとも趣味?」
ホントはホンモノだけど、こういうときは、ちょっとぼかして入る。
「ん~、趣味が高じて結構本気、的な?」

「その子、女装のオカマなの」
「ああ…」
相手が本物の女性なら、なんていうか納得できる。「まがいもので、すみませんでした」的な全面降伏。でもそれがこっち寄りだと、もう確実に許せない。しかもジャンルが違うって、どういうこと?

いるじゃん、食材は天然じゃないと、とかいう奴。あと偽おっぱいはパッドすら認めないとか。整形を叩くとか化粧を嫌うとかさ。そのくせ天然風の技巧系ナチュラルメイクにころっとだまされてね。

「男性が求める食べ物」とは何のメタファーだろうか。あるいは「本物」とは何だろうか。それは「男性が求める女性」と同義なのである。「男性が求める食べ物」とは「男性が求める女性」のことであり、男性が求める女性こそが「本物の女性」である。
しかし、ここでのポイントは、男性に求められる女性ジェンダーを「みき」がよく熟知し、女子同士の競争に利用することはあっても、彼女自身は決して「男性が求める女性」になろうとはしていないことだ。また「みき」自身は「トランスジェンダー」であり、物理的、生物学的限界から、どうしようと「絶対に女性にはなれない」ことも付け加えておくべきだろう。
「みき」は、女子同士のバトルの中で自分の目指す「女子」の姿を次のように見出している。

頭が良くて、意地悪が上手で、きちんととどめまで刺すことができる。これって一般的にはどうかわからないけど、私にとってはかなりの美点。
なぜなら私は、女の子の強さを愛しているから。

もし私が女だったら、際限なく降り掛かるミッションをぶった切りながら楽しむ自信がある。だって、怒りを燃料にできるタイプだもん。
そしてその途中で好きな人に出会ったら、相手を片手で担ぎ上げ、もう片方の手にはその相手との子供をぶら下げる。そんな状態で、死ぬまで続く炎の道を、火の粉を浴びながら走りぬけてやるのだ。

中でも「みき」が自身の性別アイデンティティに目覚める出来事は印象的であり、本作品が目指す「女子」が何であるかよく伝えている。

最初にそれを見たのは、実家のリビングだった。昼下がり、母親が何気なく見ていた再放送のドラマ。その中に、彼女たちはいた。
テレビの中の女の子は、大学生という設定だった。なのにお酒を飲み、煙草を吸い、セックスをしていた。ケンカになれば相手を思いっきり罵り、腕力にまかせたバトルを繰り広げる。よく泣いて、よく笑って、よく食べて、それが、特別ではない女の子の物語として描かれていた。
(なんて自由で、強くて、可愛いんだろう━)
将来どころか、一生が透けて見えるような地方都市の片隅。学生服のまま、リビングで「僕」は立ちすくんだ。詰め襟の息苦しさの理由が、わかった気がしたのだ。
(こうなりたい)
漠然とした憧れが、そのとき形になった。
(自由で強くて可愛い、女の子になりたい)

「みき」がインスパイアされた「女子」「女の子」が、およそウーマンリブの洗礼を受けたであろう北米のテレビドラマに登場するファンタジーの中の「強くて自由な女性たち」だったことは示唆深いものがある。
プレオペである自身の身体の状態を「かといって股間のものを憎んでいるというほどでもない。できたら、女の子のものの方がいいなあ、というレベル」と語るように、「みき」がいわゆる「性同一性障害」の典型的なパターンからはかけ離れたトランスジェンダーであることは言うまでもないが、同様に「みき」が目指す「女子」もまた、一般的なトランスジェンダーMtFが女性に対して思い描く羨望「キャピキャピした女子」「可愛らしい女子」といったものとは異なる。
「女子力」や「女性らしさ」と言えば、度々、ネットで炎上することも今や珍しくない。妄信的な女性ジェンダーへの同一性は多くの女性から反発されることはあっても、今日日、共感されることはない。
タイトルから受けるその印象とは真逆だが原作「女子的生活」における「女子」とは、フェミコードが更新された「女子」か、もしくはフェミコードを更新する「女子」のことであり、その意味において社会が女性に求める「女子力」や「女性らしさ」とは異質な「女子」である。読み違えると大変なことになるわけだが、「女子的生活」の「女子」は「女子」と言っても、「古い習慣や常識に縛られた価値観を解体する女子」のことなのである。

常識や道徳を蹴り飛ばして、楽しむことに没頭する才能。
私は、それこそが女子力ってものなんじゃないかと思っている。

かおりは、くやしそうな顔をして、ぐっと唇を噛んでいる。だろうね。だってかおりは、そういう「取り分け女」的なことが大っ嫌いなんだから。

 テレビドラマで描けなかった「階級社会」

さて、原作における「女子」が伝統的女性ジェンダーに依拠したものではなく、むしろそれに抵抗する革新的な女性ジェンダーとして創出されている前提で、テレビドラマを振り返った時、何がダメな点であるかは、もはやはっきりしている。
例えば、テレビドラマでは3話の中盤以降から故郷に帰った「みき」が「兄」との葛藤、対決を経て「父親」に「女性」として承認されるという、原作には有りもしない独自のシノプシスを展開し、「父親」に「女に手を上げるな」と言わせてしまっている。小説とテレビドラマで出来ることは異なるので、改変それ自体はいいのだが、問題は「父親」に「女」と認証される<物語性>とカタルシスだ。このような感動は一体誰のために必要だろうか?男性のためだろうか、女性のためだろうか、トランスジェンダーのためだろうか。ここでは伝統的な女性ジェンダーが強烈に回帰している。

また、直前で「兄」に対して「みき」に暴力を振るわせてしまったことも見逃せない。女に手を上げるべきではないが、それを言うなら、PC的にはそもそも争議の決着において「女でも男でも、人に手を上げるべきでない」だろう。
確かに北米のテレビドラマに登場する活動的な女性にインスパイアされた「みき」は、「おしとやか」や、あるいは「キャピキャピした」女性としては描かれず、原作において度々、暴力を振るっている。また「みき」は「ケンカになれば相手を思いっきり罵り、腕力にまかせたバトルを繰り広げる」「自由で強くて可愛い、女の子」に憧れている。しかし、それはあくまで「ロールモデル」であって、決して「暴力を振るう女の子」が目指されていたわけではないし、ましてや「みき」は挑発に乗るタイプでもない。仮に同じシノプシスで原作の「みき」が「兄」に罵倒されたとしても、彼女が殴りかかる合理性、必然性は全くない。

次の表は原作において描かれた暴力シーンをカウントしたものだ。

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※ある意味(あくまでもある意味において)「男同士」でしか叩き合っていない。これは「見えるバトル」(?)であり、「見えないバトル」である「女子バトル」とは好対照である。枕を投げるなど微妙なものはノーカン。

※電子版のためノンブルは書籍と対応してないかもしれない

これらは「暴力シーン」というより、どちらかというとキャラの立つコミカルなドタバタ劇に近い。強いて、対決における物理攻撃の応戦らしいものは2章の「ミニーさん(高山田)」との争いで生じているが、「みき」は最初に「発泡酒」をかけている。

「暴力」が対決の決着を左右したことはなく、常に「みき」は知能と話術で闘っているのである。以下は原作で描かれた対決をラウンドごとにまとめたものだ。

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こうした女子同士のバトルを通じて描き出されるのは、頭脳とスキル、容姿で挑んだとしても、高学歴高収入の男たちの母親的存在「マナミ」には絶対に勝てないように、努力では乗り越えられない「階級社会」の現実である。
「みき」の闘いだが、実際のところ「勝った」と言えるのは1章の「ゆい」と2章の「ミニーさん(高山田)」だけである。「みき」は決して弱いわけではないが、自分と同格かそれ以下、他に属性を共有出来るような相手と闘った場合にしか勝てない。アッパークラス、及び自分のマイノリティ性が露呈した場合、マジョリティの相手には「勝てない」のである。それは相手が「女性のニート」のような存在であったとしてもである。
3章は他の章に比べて地味なシーンが続くが、相手の「女性ニート」を見下した自分を「みき」が後悔する様子が描かれている。そして「女性ニート」に勝ったと思った自分こそが、彼女に利用されていたのだと知るのである。これは完全なる「みき」の敗北だろう。

「すごいですねえ。さすが東京、って感じ」
「…はあ」
「こういうのも、許されるんですね」
こういうの、ってなんなんだ。許されるって、誰に何を?

上から目線もむかつくけど、自分に酔った上での忠告も最低だ。そしてそれをしてしまったのは、彼女をバカにして、見抜けなかったから。

そこで納得した。彼女の「ほめて」は、承認欲求なんかじゃない。いつもどこかに隠れて会話を聞いている母親に対して、聞かせるためのものだったんだ。
私は、あなたが思うほど何もできない子じゃない。ほら、大きな会社の人が、私のことをこんなにほめているでしょう?
でもそのやり方はどうなんだろう。私は心の中で、首を傾げる。

「みき」を「オカマ」「異常」とした「兄」は原作では「対決者」として登場しない。なぜならば、「みき」にとって「兄」は「マジョリティ属性」であるが、「マジョリティ属性」を持つ者は、もはや「兄」としては立ち現れないからだ。それは時として「女性ニート」のような「弱者の顔」を持つ者として存在する、どこにでもいる、「みき」の身の回りにいる人たちなのである。
しかし、「みき」は闘いを経てアッパークラスの女性である「マナミ」もまた、立場は違えど自分たちと同じだと気付く。

「なのになんで、結婚したらオールクリア、みたいな気分にさせられるんだろうね?」
ムカつくよ、とかおりは吐き捨てるように言った。
「冷静に考えたら、そうじゃないことなんて、わかりきってる。なのに、なんか考えが刷り込まれてる」
言いながら、地団太を踏むように歩く。
「私にそれを刷り込んだのは、誰? そいつを、叩きのめしてやりたい」
「かおりだけじゃないでしょ」
マナミだってケイコだって、同じ。ていうか、男子だってみんな同じ呪縛の中にいる。

「見上げるもんか、って言いながら、見上げまくってた。違う人種でしょ、って思いながら、どこかで羨んでた」

「みき」たちが闘っている直接的な相手は男子を巡って競合する「女子」であり、立場の異なる「マジョリティ」だ。しかし、間接的には弱者同士が競争しなければならない世界を構築する「階級社会」なのである。

最終ラウンドは男子の中でもアッパークラスのケンイチと、彼女に逃げられ破産した「後藤」との闘いだが、これは言ってみれば「勝ち組男性」と「負け組男性」の闘いだ。「みき」は途中でその場を退場しているので、一部始終は描かれなかった。だが、この闘いは「みき」と共に暮らすことで「後藤」に訪れた変化を伝えるものであり、「みき」のファイト精神が「後藤」に受け継がれたのである。最後にして感動的な一幕だと言える。今風に言えば女性のMeeto運動に負け組男性が参戦したような状態だ。
「みき」たちは果敢に闘ったが実によく「負け続けた」と言える。しかし、本作品が伝えたいことは「負けた」ことや「勝った」ことではなく「ファイトする」ことなのだろう。

原作「女子的生活」が女子同士のバトルを描くことで、彼女たちが生きる過酷な「階級社会」を告発していること。トランスジェンダーMtFの主人公「みき」が目指す「女子」「女の子」が、伝統的ジェンダーを再生産する、一般的な意味での「女の子らしい」女の子ではなく、明らかにフェミニズムの影響を受けた革新的なものであること。などが、テレビドラマ化でどう扱われたかというと、こうした原作が持つ本来のテーマ、メッセージに関しては、ほとんど「初めから描くことを放棄していた」のではないか。


特に3話以降からの変更はフェミコードから言って「悪変した」と言っていい変質ぶりだった。それが残念でならない。

 

「女子的生活」(坂木司/新潮社 2016年8月)。文芸誌『yom yom』の読み切り競作企画「ふたりぐらし」の第3回として2013年春号に掲載された短編小説「女子的生活」が好評を博し、2014年冬号から2015年秋号、2016年春号に全6回にわたり連載された。

「派手な服着たらビッチ扱いで、地味な服にしたら非モテ扱い」「名誉男子」「肉食女子」「取り分け女」「給料が高いと男から嫌われる」「フェミコードが昭和の男」などフェミ系の話題が随所に現れる。

本書はトランスジェンダーフェミニズムが出会ったような小説だ。ネタ、言葉使いとしてはやや古くなってはいるものの、ネット用語、ネットで炎上した案件なども頻出する。ジェンダーセクシュアリティの情報がネットを通じて若者に供給される情報社会が前提にあり、主人公における「トランスジェンダー」のアイデンティティ形成とネットコミュニティは密接な関わりがあるものと推測される。

本文では触れてないが「今は思いっきり不況で、会社が気にするのは性の指向よりも賃金と労働力。だから私は、ブラック企業が溢れている今が大好き。ある意味、すごくフラットだなって気がする」と「みき」が述べているように、企業のダイバシティではなく、むしろブラック体質が「みき」のようなトランスジェンダーを受け入れる現実はリアリティがあり、雇用と弱者の問題への痛烈な風刺となっている。

ライトノベルだが、中身はプロレタリアートフェミ文学のようだ。こう書くと難しそうだが、文体は軽く、のんびり読んでも3~4時間程度だろうか。楽しみながら読める。

簡単なLGBT用語の解説もあるし、当事者たちが日常的に使う言葉使いもある。トランスジェンダーの「みき」だが典型的な性同一性障害のパターンには当てはまらない一方で、現実にはよくいそうなタイプであり、その点で本書はトランスジェンダーの読み手に対して過度なプレッシャーをかけないだろう。LGBTについてこれから何か知りたい人には入門書としてお勧めである。リードされた時の心理模写などは想像だけで書いているとは思えない記述もある。