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新潮45『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』のおかしいところ ①藤岡信勝『LGBTと「生産性」の意味』

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新潮45、10月号に掲載された特別企画『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』を読んだ。これまでの事の経緯と、発売直後からの世間の反響は各社大メディアが伝えているので、そちらに譲る。
ここでは可読性と議論のポイントを踏まえ、必要最小限の指摘に留めたいので、7本の寄稿のうち、扉を飾ってもいる3本、藤岡信勝LGBTと「生産性」の意味」、小川榮太郎『政治は「生きづらさ」という主観を救えない』、松浦大悟『特権ではなく「フェアな社会」を求む』の3本について、回をわけて触れる。

藤岡信勝LGBTと「生産性」の意味』

藤岡は杉田発言が「誤読」され「言葉狩りのターゲットとなった」として、「客観的な立場」から「杉田論文(ママ)」における「生産性」の意味について「考察する」と述べている。
そこで藤岡は冒頭、杉田発言を要約しているが、さらに要約すると次のような主張となる(詳細は※1)。

  1. 同性愛はそれほど差別を受けてない
  2. 「生きづらさ」は社会制度を変えても解消されない
  3. 彼ら彼女ら(LGBT)は子供を作らない、つまり「生産性」がない
  4. 病態である性同一性障害に医療の充実は必要だ
  5. 同性婚を認めると社会が崩壊する

要約が概ね妥当だとしても、弱者に対する社会支援を初めから否定していることに違いはなく、LGBTに対して著しい誤解と偏見を伝えている。
しかし、藤岡は根拠もなく「全く何の違和感も持たなかった」と述べている。

最低限の指摘だが3「LGBT(彼ら彼女ら)は子供を作らない」は誤解であり、LGBTのうち、事実として生殖能力を持たないのは一部のトランスジェンダーだけだ。しかも技術的な問題である。LGBTについてよく知らないと驚くかもしれないが、トランスジェンダーを含めLGBTは生物学的、身体的には「健康な典型の男女」であり、殆どの者が生殖能力を有している(「セクシュアリティ」や「ジェンダーアイデンティティ」は生物学的性別を意味しない)。

「子供を作らない」というのは世界中で見られる典型的なアンチゲイの言説なので読者には注意して欲しい。
「彼ら、彼女ら」は「子供を作らない」のでは決してない。現状の婚姻制度おいては、LGBTに限らず、社会弱者の中には子供を作りたくても作れない人たちが一定数いる、ということなのだ。これを当人たちが一種の「生きづらさ」「差別」として訴えた時、「社会制度」と無関係だとはとても言えない。制度が対応すればLGBTを初め、一定の社会弱者は子供を作り、家族を形成出来る(それを望むかどうかはともかく、子供を作る、家族を形成するという「選択肢」が持てる、ということ)。それこそ少子化を辿る日本の社会制度の問題としては避けて通れないアジェンダだ。

4の「性同一性障害に医療の充実が必要」は字数を考慮してスルーする。ただ、一言付け加えると「病態」はトランスジェンダーが医療ケアにアクセスする為の医学上の定義に過ぎない、という理解が世界的なスタンダードだ。筆者はLGBとTを「病態」で切り離すことは、例え「性同一性障害」としてトランスジェンダーを保護したとしても、一種の「トランスフォビア」だと考えている(これだけで一本書けてしまうのでこれ以上説明しない。長いと皆読まないし)。

上記の問題についてはLGBT当事者も決してよく理解しているわけではない。従って政治アジェンダとして「LGBT」支援を語る時「当事者はこう言っている」と安易に「当事者の声」を用いることは推奨されない。まして杉田発言のような差別的意見を擁護する「反論」としては乏しい。

また藤岡は、炎上の原因が尾辻かな子議員の「誤読」にあるとしている。
杉田は「少子化対策」の文脈で「生産性」に関して語っていたのであり「子供を持たない人一般」の話をしていたのではないと言うのだ(※2)。
ここが、前半部の一番のポイントだ。3について「生産性」と言っても、ある文脈の中での話だというのだ。

しかし、杉田は、初めから少子化対策の話をしていたわけでは決してなく「LGBT支援が不必要である」という前提で話をしていたはずだ。そのひとつの例として「子育てをする(男女の)カップル」と「子育てをしない」という偏見のもと「LGBT」を比較している。
この為に、杉田発言は、たんに少子化対策の枠組みでLGBT支援の是非を問うものではなく、より普遍的な意味で、社会支援の枠組みから「子供を作らない」=「生産性がない」人は「支援する必要がない」と世間の人々に受け止められた。であるが故に事態はLGBTだけでなく、様々な理由で子供を作れない人々への不当な差別発言として世間を震撼させたのである。

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国語的読解力の欠如

後半部では動物行動学研究家・竹内久美子の論考「LGBTには『生産性』がある」が参照されたが、竹内への反論として内容がないのでこれはスルーする。

それより、後半での大きなポイントは「生産性」という言葉をマルクスや、マルクスフェミニズムの旗手として知られる上野千鶴子も使っている、またフェミニズムのテーマでもある「リプロダクティブ・ヘルス・ライツ」(性と生殖に関する健康・権利)でも「リプロダクティブ」=「生産性」という用語が登場する、もし「生産性」という「分析概念」が非人間的だと非難されるなら、マルクス主義フェミニズムも糾弾しなければならないという、全く珍妙としか言い様がない理屈を開陳していることだ。

…。しかも、相当の字数と頁を消費してである。

どう言えばいいか、論理の破たんや、飛躍があり過ぎるとしか筆者には言葉が思い浮かばないのだが、とにかく世の中の左派的なもの、リベラルなテイストを感じるものは否定したいという情熱だけは感じる。ちょうど時期を同じくしてTwitter上で「ラノベの表紙」の「萌え絵」における「女性の表象」の問題について炎上があった(※3)。

一部の「萌え絵」では局部が過度にデフォルメされた「女性」もしくは「幼女」の「ステレオタイプ」が用いられるが、メディアに創出された「ステレオタイプ」に対して、現実に生きる当事者、つまりこの場合は「女性」や「少女」が居心地の悪さを感じること、あるいは「萌え絵」は性的欲望の消費が前提にあるものと推定されるのだから、そこで自身の性の主体性が不当な搾取を受けていると感じるのは自然なことで、フィクションと現実の見分けが付かないわけではない。むしろ、見分けが付いているからこそ起こっている現象だ。
これは「保毛尾田保毛男」の様に、お笑いバラエティで「オカマ」の「ステレオタイプ」が登場した時、当事者にあたる「LGBT」から「不当な表現だ」とクレーム(訴え≠苦情)が上がることと仕組みは同じだ。セリーナの風刺画が黒人女性の「ステレオタイプ」=「怒れるブラックウーマン」だとして非難殺到したことも、オタク男性が映画やコミックに登場する「オタクのステレオタイプ」に「偏見だ」と感じることも同様である。
ところが「萌え絵」がもし「気持ち悪い」のであれば、ある物に対して「気持ち悪い」というクレーム(訴え)はどんな場合でもあり得てしまう。例えば極端に食材を盛った「二郎系ラーメン」や「LGBT」も「気持ち悪い」と言われたらどうするのか、といった論理上の破たん、飛躍のある意見が夥しく上がった。
マルクスも、上野千鶴子も「生産性」を使っているのだから杉田同様に糾弾されなければならないという藤岡の主張は、この「萌え絵」を女性から批判されたオタク男性たちの言い逃れと良く似ている。

「子供を持たない人は生産性がない」と言い放つ杉田発言の問題がLGBTのみならず、多くの人々に衝撃を与えた原因・理由はどこにあるだろうか。
人々はそこで杉田発言をナチスにも通ずる「優生思想」として恐れた。いくつかの社会弱者が被害者となった惨劇を人々は振り返ることになったのだが、LGBTへの基本理解はおろか、杉田発言が人々に恐れらた原因がどこにあるか、藤岡自身、全く読み解こうとすらしていない。

安倍総理は17日のTBSのTV番組で、杉田議員について「まだ若いから、注意をしながら仕事をしていってもらいたい」とコメントしたという。1967年生まれの杉田は51歳、一橋のロースクールでゲイであることをアウティングされ自死した学生は当時25歳だ。彼女の半分も生きてない。
相模原障害者施設殺傷事件で「障害者は不幸しか作れない。いない方がいい」として次々に刺殺されていった19人の入所者は何歳だったろうか。あとどれくらい、どれくらい生きようとしたのだろう。

藤岡は杉田発言の問題点を尾辻議員の「誤読」にすり替えた上で「単純な国語的読解力の欠如」と切り捨て、『「生産性」の語に無機質な響きを感じとる日本人の情緒的言語感覚が言葉狩りに巧みに利用された』と結んでいる。
しかし、現にこの国では、杉田の半分も生きていない若者がたった一言の言葉で死に、50を過ぎようとしている杉田が「若い」という一言で許され、のうのうと生きている。
藤岡の言う「言葉狩り」「国語的読解力」とは、「論理的に正当なもの」とは、一体、一体全体なんのことなのだろうか。
これこそ「おかしい」としか言い様がないではないか。


(※1引用)(1)最近の報道はLGBTの人たちへの差別をなくそうとするものだが、キリスト教イスラム教の社会とは異なり、日本社会はこの人たちを迫害した歴史はなく、同性愛などには寛容な社会だった。今もそれほど差別されているといえるのだろうか。
(2)当事者の話によれば、社会的差別よりも自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいという。このような「生きづらさ」は制度を変えることで解消されるものではない。朝日新聞などのリベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、行政にその解決を求め、税金から支出させようとする。
(3)<子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか>
(4)そもそもLGBTとひと括りにすることがおかしい。T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」なので、いかに医療行為を充実させるかは政治としても考えていい。
(5)<多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません>。「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねない。

(※2引用)杉田氏が書いたのは、①税金という公的資金を投入するかどうかという社会的決定の文脈の中で、②公的資金少子化対策費の枠で支出するかどうかの妥当性に関して判断する基準として、③LGBTの人たちについて、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない」と位置づけられる、というだけのことだ。

(※3)「シュナムル発言」を発端にする炎上。


参照元新潮45(2018年10月号 新潮社)
※評論のため一部引用しています。本論は同書に掲載された藤岡信勝LGBTと「生産性」の意味』への論評です。画像は公式サイトによるもの。