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不完全な「キズナアイ」として生きる NHKノーベル賞解説サイトの炎上

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NHKのノーベル賞解説サイトVtuberキズナアイ」が起用された一件が炎上した。
実は、この一件ですぐに思い浮かんだのは、少し前に地味に炎上していたホリケンの生放送と、たんぽぽ川村の号泣だった。どちらも見ていてとても辛かった。

笑いながら女性を逆さ吊りにし、段ボールの壁に突進させるホリケンの生放送は単純に女性に暴力を振るう男性を連想させ身が竦む思いだったし、たんぽぽ川村の姿に至っては、私はいたたまれなくて、地中に潜りたい気持ちになった。
普通なら人前でされない辱めや、暴言を受けているにも関わらず、それがタレントとしての彼女たちの仕事である以上、場の進行を妨げないために何を要求されているかというと、例えそれが人格を粉々にするほどの出来事だったとしても、明るく笑ったり、自虐を演じて周囲を和ませることなのだ。
そして、きっと、そんな女性の立場は、たんぽぽ川村と好対照の扱いを受けた滝沢カレンも決して無関係ではない。
厚遇されて来た彼女だって、その正体が何であるかよく知ってるはずだ。

それだけに、たんぽぽ川村の「私も可愛く生まれたかった」という一言はみしみしと錨のように私の胸にめり込んで行った。
その重さは、男性として生まれたにも関わらず、「自然な女性」として生きようとした私にとって、人より何倍にも重いとおこがましくも思うのだ。これはこの世で女性として生きようとした者が等しく囚われる「呪い」である。
川村にもし、タレントとしてのプライドがあり、泣きたいことの半分も本気で泣けないのなら、私が代わりに泣いてもいい。
たんぽぽ川村の苦悩をトランスジェンダーの私は異なる形でいつも経験して来たはずなのだから。

で、「キズナアイ」だが、この二つの炎上と一体何が通じているのかと怪訝に思う人もいるかもしれない。
だが「キズナアイ」も、ホリケンの生放送も、たんぽぽ川村も、いずれも社会の中で負わなければならない「女性の役目」を巡っている問題なのである。
「女性の役目」。この一点において「キズナアイ」の炎上は、ジェンダーを巡る多くの社会問題に通じている。

キズナアイ」の炎上について二つの論点を指摘する議論があった。ひとつは上記のような「女性の役目」、男女の「ジェンダーロール」における問題点、もうひとつが「女性をアイキャッチ」「セクシュアルアイコン」として使用している点だが、これはシュナムル発言に代表されるような「萌え絵」などメディアにおける「女の子の表象」の問題だと言える。
この二つはまず切り分けて論じられるべきだろうが、全く無関係でもないだろう。
なぜならば従軍慰安婦セックスワーカーの問題が好例だが、「男性の性欲を処理すること」もまた社会の中で負うべき「女性の役割」とされてきた歴史・実態があるからだ。
どうして「女の子」が描かれるのか、どうして技術の蓄積であるAIが「女の子」の姿でないといけないのか、なぜ「女性がアイキャッチ」なのか。その理由として、物理現象の演算処理とか、「なんとなく」だとかいう問題もないわけではなさそうだが、私は腑に落ちない。そのうちの何割かはおそらく人としての「普遍的な問題」だ。つまるところ女性は女性でしかないし、男性は男性でしかないからだ。その普遍性からはトランスジェンダーの私も逃れられないのだ。どうやっても。絶対的に不可能なのである。しかし、その全てが普遍的な問題かというとそうではなく、そのうちの何割かは「社会的な問題」ではないか。だからこそ、男性に生まれたとしても、私は女性として生きていけるのである。

現在のフェミニズムの大まかな課題は、性別を巡る問題のうち社会的に構成された何割かの部分で変更可能な部分があるなら変更しよう、もう少し言うならば変更可能な部分を拡張しましょうというものだと私は考えている。
動かせない部分を無理に動かさなくてもいいが、動かせる部分は動かしましょうという発想だ。
なぜって?

色んな答え方がある。
例えばトランスジェンダーがちょっとぐらい「不自然な女性」に見えたとしても生きていけるように。
例えば、先の文脈から言えばあらゆる女性が「私も可愛く生まれたかった」などと言わなくても済むような、それを自虐で受け入れなくても済むような、そんな社会にしなければ、男性はともかく、女性は生きるのがとてもしんどいからである。

夢と幻想のキズナアイ

キズナアイ」は活動開始からわずか5ヵ月でチャンネル登録者数50万人を突破したモンスター級のキャラクターだ。現在の登録者数は実に225万人余り(公式Twitterは46万フォロワー)、その多くが海外ユーザーだ。動画が配信されると世界中の国々でトランスレートされる。
というのも、韓国で火が付き、IGONKOTAKUなど海外のオタクメディア、大手掲示板のReddit4chan、テック系のTHE VERGEで取り上げられたことで英語圏で大ブレイク、日本でのブームがその後を追いかけるという半ば逆輸入の展開を遂げたのである。
画像転載で知られるニコ動の「例のアレ」カテゴリーでランキングに登場したことや、VRchatのブームも強い追風となった。
現在、VTuber事情は、数々のベンチャー企業が参入し、マネタイズのためのプロジェクトを立ち上げ、フィギュアを始めとした関連グッズと第三者団体、製造業、情報産業からなる一大市場を築き上げている。
その全ての祖が「キズナアイ」なのだから、確かに日本を代表するコンテンツ産業の公式キャラクターとしてこれ以上相応しい存在は他になく、コアなファン層、特にテック系男子にとってはもはや「神の中の神」に近い存在である。
キズナアイ」はキャラクターであると同時に、一種の「産業イノベーション」であり「プラットフォーム」であり、その総てが「キズナアイ」なのだ。

だから、ノーベル賞の解説サイトに日本のデジタル産業の女神「キズナアイ」が出て来るのは、その「流れ」から言えば全然おかしくない。
いや、ここで出て来なくていつどこで出て来るんだ?というくらい変なことではない。

そして「キズナアイ」の動画を見れば、誰もがその闊達な動きや、可愛らしさに目を奪われる。話の内容はともかく、ただ動作を見ているだけで面白いと感じる人は少なくないのではないか。髪の毛の揺れ、時折、白目が剥き出しになるほど収縮を繰り返してはよく動く奥行きのある瞳、リズミカルにスムースに動く四肢。加えて中に入っている声優のトーク。どれもが魅力的だ。
それが「高解像度の高性能アバターである」ということの訴求力もまたアニメキャラを見慣れた世代には大きい。
生身の女の子は汗もかくし、うんちもするし、爪は伸びるし、体毛がある。どこかで誰か男のものとなり、エッチだってする。何より「自分」「私」という他者にはどうにもならない「自我」がある。
最新技術で動くアバターはその背後におおよそ女性の演者が存在するにしても、テック系男子が生の女の子に対して目を背けたい部分、感じたくない部分、ドロッとした汚い部分を全く気にならない程度に隠してくれる。

炎上で「キズナアイ」を擁護する意見には、女子にも人気があると言う声がいくつか見られたが、「すごく可愛い」という点で「キズナアイ」は女子にも見やすいはずだ。花形産業の担い手にもなる男子の注目を一手に集めるヴァーチャル・アイドル「キズナアイ」に憧れる少女がいない方がおかしい。
そして、私も、きっと若かったら、女性アイドルを憧れるように、「キズナアイ」になりたくてしょうがない女の子になっていたと思うのだ。
ところが同時に私は「キズナアイ」の魅力に惹かれれば惹かれるほど、複雑な気持ちになる。

NHKの起用をジェンダーロールの視点から指摘すれば、「キズナアイ」を起用したとしても、女性が「聞き役」で男性が「話し手」という旧来のジェンダーロールを想起させるものではなく、バリエーションを用意したり、フワフワしたまるで男子が思い描く「ダサピンクの女子部屋」のようなサイトデザインなど、工夫すれば、幾分かマシになったかもしれない。
だが、「キズナアイ」を起用する時点でそれは「あり得ない選択」だ。
なぜならば、彼女はそもそも「そういうキャラクター」であり、男子から求められる「役目」をしっかりこなす「完璧な女の子」が「キズナアイ」なのだから。
NHKの解説サイトで「キズナアイ」はほとんど内容らしい内容を話していない。「へ~」とか「ほ~」とか言ってるだけなのだが、それはホームグラウンドでも同じで、よく話してはいるが内容らしい内容はないのである。面白ければいいので「内容」などどうでもいいのだが、「内容はないけど面白い」というトーク力は声優の才能と企画・編集・演出のセンスであり、目を見張るものがある。
とは言え、その「ポンコツ」っぷり、「無知」っぷりが彼女の魅力のひとつなのだ。

この傾向は大御所「キズナアイ」だけではない、「ミライアカリ」「輝夜月」「電脳少女シロ」など多くの美少女(性別不詳という設定だとしても見た目は美少女だろう)VTuberに認められる性質だ。
妹系、お姉さん系、おっとり系、清純派系。美少女のバリエーションこそ多彩だが、求められるジェンダーロールとある方面に特化したトーク力は規格化していると言っていい。それはある時はエロく、ある時は優しく、ある時は楽しく、男子をサポートする、男子に求められる「完璧で完全無欠な女の子の具現体」である。

そしてこれらを見渡す程に、その楽しさと魅力の反面、私の不安は大きくなる。
性別を変えてしばらくの間、私は苦労した。職場を何回も変えたし、思い出すだけでも恥ずかしくて死にたくなる失敗を数多く繰り返して来た。
当初驚いたのは、女子の振舞いだった。女子は職場で明らかに男子とは異なる立ち位置にいた。一目置かれる男子社員でもビビって縮み上がってしまう男性上司に蝶の如く近づき、あろうことか軽く冗談を言ってのける女子の存在である。それが、新卒で入ったばかりの、まだ子供に見える若い子でもごく自然に出来るのを目の当たりにして、私は驚愕したものだった。

コツを掴んで自分にもその真似が出来るようになると、年甲斐もなく私は有頂天になっていった。
後で判ったことだが、それは「若い」からこそ出来ることでもあったのだ。またそんな男子には絶対真似出来ないようなことをやってのける女子が、常に女子社会の中心にいるかというと、そうでもないことも徐々に判っていった。

正規社員でも女子は正規のルートから外れた特殊な社員であることも。

女子として生きることは、場の空気を読んで男性の求めるものにそつなく応えること。完パス埋没MtFの醍醐味である。それが出来る自分に女性としての喜びを感じたし、私の自己同一性は高まった。
これだ、これこそが私の生きる道なのだ。と思った。
今でも私は職場で確かに男子社会の予定調和の中で生きていて、それに適応出来る自分に満身の喜びを感じていないかというと嘘になる。

そして「キズナアイ」を見ていると思う。
多かれ少なかれ、世の多くの女性はもしかしたら学校で、職場で、家庭で、「キズナアイ」的に生きているのではないだろうかと。もちろん、「キズナアイ」のように完璧ではないし、決して可愛くもない、まったくもって不完全で欠陥品の「キズナアイ」なのだが。SF映画によく出て来るようなロボットの墓場に山になって捨てられている使い古しの残骸。あれあれ、あれだ。
廃棄された女性ロボの何割かはかつて「キズナアイ」になろうとした「女の子」であり、そうでない何割かは「自分だけはそうはなるまい」と誓った「女の子」だったんじゃないだろうか。

ホリケンの生放送やたんぽぽ川村の一件は、女性に乱暴してもいい、女性の容姿で態度を変えてもいい、そして女性はそのように扱われた時、場を凍らせず、周囲に気遣い、明るく振る舞うことこそが「女性の役目・仕事」なのだというメッセージを公に発信している。
キズナアイ」もそうだ。女性が「聞き役」で、男性が「話し手」。その場合、女性は無知をさらけ出しながらも、上手に相槌を打って、男性が話すことにストレスを感じないように、また第三者が話し手である男性の話を聞きやすいように振る舞うことこそが「女性の役目」だという強いメッセージを伝えている。しかし、技術の粋を結集して作った人造人間「女の子」が、「可愛いくてよくしゃべるアホな子」というのはどう受け止めればいいのだろうか。面白くて心は和むのだけれど。
伊藤詩織の「日本の秘められた恥」で、杉田水脈は「女として落ち度があった」と語っている。それは逆に言えば「女として落ち度のない、完璧な対応がある」ことを意味している。
キズナアイ」と杉田の言う「女としての落ち度」は、女性が「性的な存在」であることと無関係ではない。
そして、最も重要なことは、ともかく、それを私たちは日々「当たり前」のこととして、ある時は「面白いこと」として、自然に受け取っているという事実だ。

もちろん、男性から求められる役割を全力で演じたい女性もいる、あえてそれが必要な時もある。それ自体を全否定するつもりも、する自信も私にはない。
性別を変える過程で私はたんぽぽ川村が陥った苦悩を乗り越えたと思った。
でもそれは浅はかなことだった。

私は「不完全なキズナアイ」として生きるしかない自分のしがない日常に向き合っている。
そしてたんぽぽ川村のために泣きたい自分がここにいることを今、痛みと共に噛みしめている。