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「にくをはぐ」~シスとトランスでは見えている景色が違う

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年明け早々にその内容から様々な賛否両論、共感や反発を呼び、瞬く間に話題沸騰となった漫画がある。
Webコミックメディアの少年ジャンプ+に掲載された「にくをはぐ」(遠田おと)だ。

にくをはぐ - 遠田おと | 少年ジャンプ+

(※この記事はネタバレしますので気を付けて下さい)

ジャンプにジェンダー作品、ところが…

ファザコンFtMが「狩猟」の世界でアイデンティティを獲得していく物語で、主人公の少女が父との葛藤を経て名実ともに「トランス男性」として変貌を遂げて行く姿を描いている。
当初、話題の先行は、「狩猟」と「性的少数者」という異色の取り合わせもさることながら、ゲイのコミックエッセイで知られ、多くのファンを持つ漫画家のもちぎさんが「ジェンダーとジャンプが相反しないことを証明した」と伝えているように、やはり「女性の表象」の問題で度々炎上を起こして来た少年漫画の金字塔とも言えるあの「ジャンプ」にジェンダーをテーマにした作品が颯爽と現れたことだろう。

もちぎさんのツイートは掲載直後にされているが、一見して随所にアラが目立ち作者の「未熟」さは否めない本作がこれ程ブレイクしたのは、比較的早い段階で「ジェンダーとジャンプ」という、作品を評価するにあたって作者の力不足を補うだけの、大きな括りで社会的文脈を与えられたからではないかと思う。実際、もちぎさんのツイートで触発されて興味を持った読者は少なくないのではないか。

ゆらぎ荘の幽奈さん」のエロ表現、「少年の心が判らないと編集者にはなれない」で炎上した集英社の就職セミナー、「少年漫画が少年を対象にしている以上作品内で女性が不快な気持ちになる描写はあり得ます」と発言した漫画家の篠原健太さんなど、ジェンダー関連で度々炎上してきたジャンプの流れから見れば、作品としての完成度はともかく、ジェンダーを主題化した作品の登場はフェミニズム的には歓迎されるべきことのはずだった。
ところが、以後、この作品は「ジェンダーとジャンプ」とは別の文脈から議論を呼んでいる。

実に様々なことが言われていて、正直私も少し驚いたのだが、作品に対する違和感をいくつかに分類すると、①性別違和がはっきりしないこと、ないしは主人公が混乱して見えること ②トランス・アイデンティティそのものに対する嫌悪感 ③ジェンダー観が保守的 ④女性差別の問題 といったところだろうか。

①性別違和がよく判らない

②トランス・アイデンティティそのものへの嫌悪

ジェンダー観が保守的

女性差別の問題

トランス・アイデンティティとは何か?

これらの意見の幾つかは私自身も共感する部分がないわけではない。例えば、千秋が巨乳であり自ら女体を持つことを生かして日銭を稼ぐYouTuberであることなど、性別違和に苦しむFtMの行動原理から言うと、一般には矛盾して見えるかもしれない。千秋は父親に自分の巨乳を見られないようシーツで隠したりするが、一方YouTubeで女の身体を晒していることを父親にそれとなく話したりもしている。他にも父親を思うばかりあっさり「偽装結婚」を決意してしまったり、自分に怪我をさせて泣いて謝る父親の姿を見てトランスを諦めてしまったりもする。
男の自分を父に認めさせようではなく、ここでは父親に認められること=男になることであり、父親が認めない限り女性に留まろうとする千秋がいるのだ(千秋が女性であることに踏み止まっているのは、おそらく千秋が故人である母親の凪子と似ていることと無関係ではないと思われる)。

性同一性障害の物語で親と衝突する設定はよく見かけるが、いずれも踏み留まろうとしない子を親が理解して、親子の絆が再確認されるというパターンであり、一般にもそれが自然に見えると思うのだが、強い性別違和を持ちながらも父親を想う気持ちでトランスを踏み留まるトランス当事者が描かれている。これは、やはり珍しいパターンではないかと思われる(しかし、結果的には偽造結婚を父に反対され、千秋もまた多くの性同一性障害の物語の主人公のように自分の人生をチョイスすることで親に認められるという道筋を辿っている)。

とは言え、父親に乳房や子宮を切り取られることで男性へと変貌を遂げるという千秋の願望を描くことになるシーンは「狩猟」や「獣の解体」と相乗的な印象を持ち、極めて猟奇的でエロティックだ。どこか恋愛感情すら感じさせる、些か歪な親子(父と娘)の関係ではないだろうか。
これは果たして「性別違和」なのか、世の中のジェンダー規範に対する抵抗感なのか、もっと別の何か特殊な性指向性なのか。千秋は何を目指しているのか。何かそれこそ解体された獣の臓物のような、どれが何だか判らない、「ぐちゃぐちゃ」っとした感じが私も確かにするのだ。

先に本作に対するレビューがあるブログにアップされたが、こちらの方はトランス当事者に一定の支持を集めている。

note.com

というのも、本作への違和感や嫌悪感は、それ自体は女性の感覚として了解出来るものの、間接的にはこれらはトランス・アイデンティティの否定に繋がりかねないもので、中には②のケースのように意図的にトランス・アイデンティティを攻撃する発言もしばしば見られた。
それで、トランス当事者たちが千秋のトランスを擁護しているのだ。

千秋の行動は、性別違和を持つ人としての一貫性がない、曖昧で混乱しているように見えるということは確かにあると思う。
私もこれを「FtMの王道」とか「中核群」と言われるとかなり首を傾げたくなる。
典型的な性同一性障害の「性別違和」とは、一般にイメージされる心の悩みやジェンダー規範への息苦しさとは異なる。それは誰にでもあるはずの両腕が自分には片方しかないとか、目の上に腫瘍が出来て目が開けたくても開けられないとかいうフィジカルな身体の悩みに近いものだ。
しかし、ここで大事なことは、「性別違和とは何なのか?」とか「性同一性障害なのか性差別なのか」ということよりも、ある人々にとっては不審に映るものが、トランス当事者には、むしろある種のリアリティやアクチュアリティとして伝わっていることではないだろうか。
なぜならば、トランスをしない人たちにとって納得のいくトランス・アイデンティティをトランスの人たちが持たねばならない、それを説明しなければならないのだとしたら、それはそれで「全くおかしい」と言う他ないからである。

千秋の人物像や行動は、ふみふみこの「ぼくらのへんたい」や、志村貴子の「放浪息子」、木尾士目の「げんしけん二代目」のように、作者の計算で生じたものではないと思われる。というより、不勉強なまま想像で当事者を描いてしまっているようにも見える。
性適合手術にも似た行為を父親に望み「ありがとう」と呟く姿はトランスジェンダー以前に何か異様なものを感じるし、あっさりSRSを薦める医者が登場するかと思えば、別のシーンでは「性転換後に自殺する人が多い」とオペに対する恐怖を煽っている。これらの登場人物像や台詞は劇作上必要とされているだけで(例えそういう医者や、そういう当事者がいたとしても)、実態からは乖離しており、そう描くことが現実に生きている当事者やその周囲に与える影響まで考えて描いているだろうか。

しかし、作者がビジュアルとしてエキセントリックで刺激的なものを優先し、想像で描いたことで、今までよくメディアで描かれて来た当事者とは一風異なる、一種スキゾフレニア的な当事者を描くことになり、結果的にはそれが当事者のリアルをよく捉えることになったのではないだろうか。

現実には女性として男性を相手にするFtMセックスワーカーも、ペニスで男性に性的サービスを行うMtFセックスワーカーもいるし、もともと女装であり、一種の性癖であったものが、持続される中で本人のアイデンティティに深く関わりを持つこともあるし、世の中のジェンダーに対する違和感や性差別への抵抗感がトランスの動機になることもあり得る。何がトランスのスイッチを押し、どんな選択をし、どうトランスを果たすのか、それは人それぞれだ。
そして、どんなきっかけだったとしても、トランスは、ジェンダーの変容を伴うものなので、ある場面ではジェンダーに従うことが要求され、期待されるが、別の場面ではジェンダーに従わないことが期待されたり要求される現実をトランスジェンダーは生きることになる。
「偽物ではないか」と言われないために「トランスジェンダーらしく振舞おうとする」「GID当事者として、それらしい自分史を語ろうとする」などという行動は、当人が置かれた状況をよく表している。
そうした中で人格や行動を統一的に行うことは至極困難な事であり、そこで何をしたいか説明して欲しいというトランスしない人々の素朴な疑問がどれ程トランスする人を苦しめるか。
本作がトランス当事者の共感を集めた理由もまたそこにあるだろう。

ちょうどTwitterで #男と女で見えてる景色が違う というハッシュタグが流行っているが、まさにこれは「シスとトランスでは見えている景色が違う」ということを意図せず詳らかにした事が本作の良さではないだろうか。

The End of the F***ing 保守的な世界
高藤のクィア性と二人が生きた時間

本作では③ジェンダー観が保守的 であることや、④「女性差別」にも主に女性たちから批判が集まった。
確かにYouTuberの千秋に絶えず浴びせられる卑猥なコメントや、「傷は男の勲章」「女の子の身体に傷を付けてしまった」とか、「嫁入り準備」や「立派なお嫁さん」とか、男の子と喧嘩しても女の子だから対等に扱ってもらえないことなど、日常に溢れる性差別やジェンダーバイアスが描かれるが、それらが作中回収されないまま、皮肉にも挑発にも受け取れる「彼女募集」というYouTuberお馴染みの決まり文句を千秋が宣言することで、男性としての千秋のアイデンティティがここに完成したことを読者は知らされる。
そして、いい大人の青年となったはずなのに、やっぱりお父さん大好きっ子全開で、二人して森の中に消えてしまう、その様子を見ると「何だったのか?」と女性としてボヤキの一つも入れたくなるのは無理もないと思われる。

手術を受けた千秋を前に父親は「何で俺はお前の一番の幸せが嫁に行くことだと思い込んでいたんだろうな」と改心するが、それは父親が自らのジェンダーバイアスに気付いたわけでは決してない。なぜならば、父親にとってそれは「女の子の身体に傷を付けた悔い」が「男の勲章」を自分が与えたことに変容する(千秋を撃ったのは父親自身なのである)、千秋が男になることで父親が救済される瞬間なのである。
そして千秋は、父親から銃を譲り受けるのだが、それはどこか男同士の密約めいた儀式のようだ。

性差別やジェンダーバイアスは、男女の「男らしさ」や「女らしさ」と関わりを持つものとしても知られている。トランス・アイデンティティがスキゾフレニアでアンビバレントなものであるのはいいとして、父親のために「女らしさ」を担保し続け、一方で隠し続けた千秋にとって「男らしさ」や「女らしさ」とは何だったのだろうか。
トランスの過程でこうした父親や千秋の「らしさ」に対する拘りが何か少しでも変化する様子が描かれていたら、読者の受け止め方も変わっていたのではないだろうか。

だが私はここで高藤の存在を忘れてはならないと思う。高藤。そう彼こそ、「にくをはぐ」のもう一人の主人公である。

高藤は千秋の彼氏とも友達とも言えないような、ある意味「頼りない存在」として登場している。ナヨっとした痩せぎす、釣り目で、出っ歯、ねずみ男のような容姿で、決してカッコ良くはない。「狩猟の世界」に生きる男くさい男性、千秋の父親とは正反対の男性像である。
YouTuberの千秋のカメラマンであり、肉を片手にくちゃくちゃ言いながらカメラを手にしている様子はもはや「カッコ良くない」を通り越して「気持ち悪い」と言って良く、ジャンプ的ヒーローとしても全くの真逆のキャラクターであることに注目したい。
高藤は、千秋の画策した「偽装結婚」では父親から「ちゃんと好きなやつと結婚しろ」と一蹴され、獣を捌いたり、「この姿で死にたくない」「男として死にたい」と言い放つ千秋を「かっこいい~」と眺めるだけの存在なのである。

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高藤と千秋が出会ったのは、おそらく小学生の頃だろう。千秋が学校で「お前ら男の癖に全然カッコよくねぇ!」と二人の男子を殴った折、傍らでヘタっている男子が高藤である。中学生になると高藤は千秋に告白するが、その時に千秋が性同一性障害であることを知る。
以後、付き合っているのか、いないのか、いずれにしろ二人がただの友達同士ではない特別な関係であったことは、千秋の初潮の時に高藤が多目的トイレに付き添い、千秋に自分のズボンを貸し、自分は千秋の血まみれのズボンを履いて帰ったエピソードから伺い知れる。
それが中2の頃であり、物語の現在が千秋の26なのだから、およそ二人は10年以上の月日を何らかの形で共にし、お互いを支えて来たことになるのだ。

10年である。10年…。
仮にこの物語が一部の女性たちの言うように極めて保守的な世界観を持っていたとして、決して男らしくはない、むしろ男としては競争社会の落ちこぼれで、千秋を「カッコいいい存在」として慕うしか能のない高藤と、巨乳なのに中身は男でファザコンという一風変わった女、千秋というこの奇妙なカップルにとって、その「保守的な世界」の中で生き延びた10年とは、一体どんなものだったのだろうかと私は想像する。
そしてその時、私は二人が共有しただろう孤独と辛さを思うと胸が締め付けられるような気持ちになるのだ。

高藤はきっと千秋を女性として好きなのか、千秋の本性が男性だとしても好きでいられるのか悩んだことだろう。千秋が性同一性障害だと知りながらカメラマンをし、卑猥なコメントを読み続ける高藤は一体どんな気持ちでカメラを持っていたのだろう。
うわべではヘラヘラしながらも、きっと、千秋以上に冷たく、熱く、ひりひりした日常を送っていたのではないだろうか。
そして、千秋もまたそんな高藤の想いを知らなかったわけでは決してないだろう。
タイから帰国した直後、千秋は車の中で高藤の服を着てみせながら、こう言うのである。

「高藤は俺が知ってる男の中で 一番カッコいい奴だと思っている」

 

少なくない女性が本作を「保守的なジェンダー観」「女性差別」的だと感想を漏らしているが、それは高藤の存在を見落とした作品に対して読み込みの浅い評価ではないか。
そうは見えないかもしれないが、少なくとも二人にとっての10年は「保守的な世界」との戦いだったはずである。
そう、二人はきっと戦っていた。「このサイテーな世界の終わり」のジェームズとアリッサのようにきっと二人なりの仕方で戦っていたに違いないと思うのだ。

「にくをはぐ」のもうひとつの良さは、「狩猟の世界」に生きる男らしい男性である父親と、その父親に憧れるトランス男性というステレオタイプな男性像を入れ子にして見せた一方で、その真逆に位置しながら男としては欠陥品である高藤を千秋の理解者として据え、「男らしさ」や「カッコよさ」を再定義することに成功していることだ。
千秋がトランスを果たすことで、高藤が獲得した「男らしさ」や「カッコよさ」は、ステレオタイプなものでは決してない。「男らしい」とはどういうことか、「カッコいい」とはどういうことか。高藤は新しい価値観を作ったのだ。これはまさに「クィア」の再定義と同じものだし、ジャンプのジェンダー作品に相応しいアンチヒーローではないだろうか。

千秋が男性になり、自分の手の届かないところへ行くかもしれないという予感と千秋への想い。男らしくない男の自分と、男になろうとする千秋に男らしいカッコ良さを感じてしまう自分。葛藤に最後まで耐え抜き、千秋の変貌を見事に見届けた高藤は、トランスしないトランサーであり、保守的と評価された作中に人知れず楔を打ち込だもう一人のクィアな主人公だと言える。

男であること 女であること

ところで、千秋は「知ってる?女性で狩猟をやってる人もいるんだよ」と父親に反論しているが、男性なのに女性になって狩猟をやっている人もいるということは知っていただろうか。
私事で恐縮だが、本作のテーマと関係あるので白状すると、実はかく言う私も数年前から狩猟をしている。鉄砲も持っている。
つまり、私はトランスジェンダーであり、狩猟者であるという本作と逆パターンだが千秋と同じ立場なのだ。
どちらの現場も知っているし、その両方が重なった時、世界はどう見えるか?ということを私は知っている。

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千秋が星空の下で「いいなぁ男は… 何で私は男じゃないんだろうなあ」と呟くシーンがある。
私も狩猟シーズンになると、千秋のように鉄砲を担いで山に登っているが、山で実際に見る獣はとても美しいし、また狩猟する男性もどこか美しい存在だと感じている。
自然の中で呼吸し、また息を止める時、私もまた千秋のように想うことがある。

「いいなぁ男は… 何で私は男じゃないんだろうなあ」

…。いやお前は男だったろうが、じゃあ、なんで女になったんだよ?と皆さんは思うかもしれないが、私は男にはなれなかったから、わざわざ女になって狩猟をやっているのである。
だが女性になってみると、男性が男性としてありのままでいられるような、その男性らしさというものを素直に受け止めてもいいと思える時もあるということに、私は気付いたのだ。でも私は男性にはなりたくないのだけど。
「ややこしんですね」と言われそうだが、私は人より回り道をして「女らしさ」や「男らしさ」に辿り付いたのだと思う。

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それで、作品とは別に私は個人的に千秋と膝を詰めてちょっと話したいことがあるのだが、それはきっと私だけではないと思う。
「男の世界」として本作で描かれている「狩猟の世界」だが、ブームを迎えて久しく、その「狩猟の世界」も急速に様変わりしている。
女性のハンター、シューターはもはや全く珍しくない存在だし、女性がイニシアティブを握っている狩猟コミュニティもある。
もちろんだが、ゲイ、ビアンの人たちもちゃんといるんだぜ。
「知ってる?女性で狩猟をやってる人もいるんだよ」ではなく、「色んな人たちが狩猟をやっている」のだ。


千秋よ。ひとりじゃない。みんながお前を山で待っているぞ…!さあ、狩りに行こうぜ。